2011年03月31日

聞こえるか、主イエスの鼓動が−大友愛郎説教選−(2011年3月24日放送)

「ひそかな記録」(ヨハネ8:1〜11)

イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(ヨハネ福音書8章1〜11節)

律法学者、パリサイ人たちが姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきた。
「モーセは、こういう時には殺せと言った。イエス、お前ならどうする」と。
モーセの律法を守るということはイスラエル人の誇りだったんです。
イエス様がこの女を打ち殺さないと言えば、「お前はイスラエル人じゃない」と言われるし、
打ち殺せと言えば「『愛する』と言っていたのは口だけか」と。
どっちにいってもイエスは咎められるように罠を仕掛けた。続きを読む

2011年03月29日

使徒信条・十戒・主の祈り−信じること・生きること・祈ること−(2011年3月29日放送)

第52回(最終回)主の祈り〜栄光をほめたたえて〜

加藤常昭(神学者)


ハイデルベルク信仰問答・問129「『アーメン』という小さな言葉はどういう意味ですか。」
答え「アーメンというのは、これは真実であり確かであるに違いないということであります。
なぜなら私の祈りは自分の心の中に、自分がこのようなことを神に求めていると感ずるよりもはるかに確かに、
神によって聞かれているからであります。」

「アーメン」とは世界万国共通のキリスト者の祈りの締めくくりの言葉です。
けれども、もともとは祈りにつきものの言葉であったわけではなく、
真実の言葉を語る時に繰り返されて用いられた、ユダヤ人が絶えず口にしていた言葉でした。

「これは本当のことです」と言葉の確かさを意味するものです。
自分で自分の言葉にハンコを捺すようなものです。
ですから私どもの祈りを私どもの信仰によって確かなものとする意味で
「アーメン」と言うのだと、そう考えることがあるのです。

しかしこの信仰問答は、そうは言わないのです。
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2011年03月25日

幸いを告げるうた−詩篇−(2011年3月18日放送)

第106篇「救いの歴史と祈りの力」
小林和夫(日本ホーリネス教団・東京聖書学院教会牧師)

「このように彼らはそのわざによっておのれを汚し、そのおこないによって姦淫をなした。それゆえ、主の怒りがその民にむかって燃え、その嗣業を憎んで、彼らをもろもろの国民の手にわたされた。彼らはおのれを憎む者に治められ、その敵にしえたげられ、その力の下に征服された。主はしばしば彼らを助けられたが、彼らははかりごとを設けてそむき、その不義によって低くされた。」(詩篇106篇39〜43節)

この詩篇106篇は、人間がどれほど頑固で、罪深く、神様のお心を痛めて、
神様がお怒りになるようなことをするのかという、そういう人間の歴史が記されております。続きを読む
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2011年03月18日

あこがれと涙とほほえみと(2011年3月11日放送)

第6回(最終回) 神の招き

今道友信(哲学者・東京大学名誉教授) 

神に呼びかけられ、神と関わり合う存在


私どもがこの世に存在しているということは、
神が存在の世界に招いてくださったということではなかろうかと思わざるを得ません。

創世記の最初に、神様がいろいろなものをお造りになるとき、
「光あれ」と光をお招きになると光が出てきたとあります。

創造は呼びかけから始まるのだと考えますと、
私どもに人間の世界での呼び名が決まる前に、
神様が一人ひとりを呼び出しておられるのではないかと考えられます。

そうしますと私どもは、神がいらないものをお呼びになるはずはないので、
何か神様のために必要なものなのではないかという気が致します。

もちろん神様は完全無欠ですから、
「神が何かを必要とする」という言い方はおかしいのです。
しかしまた、神がお呼びになったからこそ、
私どもは存在の世界にいられるのだと思いますと、
私どもは神の招かれざる存在ではなくて、
神がお招きくださった存在なのだと考えることができるのです。
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2011年03月12日

コーヒーブレイク・インタビュー(2011年3月5日放送)

仲澤純代氏
(出版社勤務)
聞き手・吉崎恵子


▼子育ても忙しくなって、サッカーだとかカブスカウトだとか
親も一緒に行ったりするので、どうしても日曜日の午前中がそれにとられて
なかなか教会に行けなくなって。
そのうちだんだん「行けない」んじゃなくて「行かなく」なってしまって。
今さらどんな顔して行ったらいいのかなとか、そんな思いもあって。
それでしばらく遠のいてしまって。続きを読む
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2011年03月08日

大和田広美♪Precious Day(2011年3月1日放送)

どんなふうに一日を始める?

この前、チャーチスクールで高校生たちと
「私たちは毎日どんな心で一日を始めているだろうか?」そんな話をしました。

皆さんは朝起きて、どんな感じで一日が始まるでしょうか。
私は起きたら、まずお布団の中でいろいろ考えます。
一日のことを思い巡らして、お布団から出た後の行動を組み立てて
「今日はあそこに行って、これをやって、あの人に会って、こんなことをして…そして一日が終わる」
というようなスケジュールを考えて、それに伴う感情と語り合いながら…
そして決心して起き上がって、一日を始めるんです。
続きを読む
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2011年03月03日

聞こえるか、主イエスの鼓動が−大友愛郎説教選−(2011年2月24日放送)

「主よ、私から離れてください」(ルカ5:1〜11)

さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(ルカ福音書5章1〜11節)

私たちは「神が私たちと一緒にいてくださるように」と祈りますね。
ですが、もし神が私たちと共に本当にいることがはっきりわかったらどうでしょう。
たぶん私は慌てふためきおじ惑うに違いない。
もし本当にそのような経験が生々しく私たちに感じられたなら、有頂天になって喜べない。
「神様、離れて行ってください」と言うかもしれません。続きを読む

2011年02月22日

使徒信条・十戒・主の祈り−信じること・生きること・祈ること−(2011年2月15日放送)

第46回 主の祈り(2)「御名の崇められることを」
加藤常昭氏(神学者)

(主の祈りは)「天にまします我らの父よ」という呼びかけに続きまして、
「御名を崇めさせたまえ」という祈りの言葉が始まるのです。
皆さんはこの祈りを初め聞いたとき、どんなことをお考えになったでしょうか。

「御名」というのは神そのもの。
そういう考え方は聖書が書かれました時代に強かったので、
「御名が崇められるように」ということは、
神様ご自身が崇められますようにという意味だと言ってよいと思うのです。

どうしてこういう祈りを主イエスが私どもに祈るように教えられたのだろうか。
神の子イエスが、父なる神の名がいつも聖くありますようにと願うということは
当然のことかもしれません。
私どもはしかし、罪の弱さ、汚れの中に紛れ込んでしまっているようなところがあります。
だから私どもにとってこの祈りをすることは本当に厳しいことであり、
かえって自分の滅びをさらけ出してしまうような祈りでさえあると思うのです。

こんな祈りをする資格があるのかと思います。
そういう私どもに、御名が聖められることを祈れと主イエスが仰ったのはなぜなのでしょうか。続きを読む

2011年02月19日

コーヒーブレイク・インタビュー(2011年2月5日、12日放送)

大嶋重徳氏(KGK関東地区責任主事)
聞き手 吉崎恵子


▼KGK(キリスト者学生会)は1947年に始まったんですが、
早稲田大学で戦争中に出来なかった授業を取り戻すということで日曜授業を始めようとした時に、
キリスト者の学生たちが、日曜日は主の日だから授業をしないようにという署名運動を行ったんです。
しかし学校当局はそれを強行しましたので、
学校の中で礼拝を捧げようとした所からKGKが始まったんですね。
その後は日曜授業はなくなったんですけど、大学の中で祈り会、聖書研究会を通じて
ノンクリスチャンの学生を誘って伝道していこうと始まったんです。
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2011年02月17日

近づかれると、近づいて(2011年2月10日放送)

「失われた息子」(ルカ15:11〜32)

イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ福音書15章11〜32節)
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