斎藤秀文氏
(日本バプテスト・バイブル・フェローシップ 金沢聖書バプテスト教会牧師)
私の父の兄は障がい者でした。
私は中学時代から、人間の価値ってどこにあるのかなぁと、
その伯父を見ながら悩んできました。
ある時に、伯父を殺して自分も死んだらどうだろうかと。
なぜかというと、自分もやっぱりすごく嫌なものを持っていることを非常に思いまして。
たとえば八百屋さんできれいにリンゴがカゴに盛られていますと、
きれいにそろっているのがすごく嫌だったんですね。
それを全部ぐしゃぐしゃにしてしまいたい。そういう思いにすごく駆られて。
そんな自分もその伯父さんも、世の中の役に立たない。
だから伯父さんを殺して自分も死にたい。そう考えていたわけです。続きを読む
2009年12月01日
御足の跡を(2009年11月24日放送)
キリストの血 ヘブライ9:11〜22
私は、キリストの血の池に自分が首まで浸っている夢を見ました。
その夢の意味を知るために、祈りました。聖書を読み、祈りました。
ヘブライ人の手紙に「キリストの血」が書いてありました。
「まして、永遠の霊≠ノよって、御自身をきずのないものとして
神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、
生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9章14節)続きを読む
私は、キリストの血の池に自分が首まで浸っている夢を見ました。
その夢の意味を知るために、祈りました。聖書を読み、祈りました。
ヘブライ人の手紙に「キリストの血」が書いてありました。
「まして、永遠の霊≠ノよって、御自身をきずのないものとして
神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、
生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9章14節)続きを読む
わが神、イエスーヨハネによる福音書ー(2009年11月21日放送)
ピラトの法廷(5)お前はどこから来た(ヨハネ19:8〜12)
ピラトはイエスを釈放しようと努めました。
しかしユダヤ人たちはイエスの死を求めるのです。
彼らはピラトの一番の弱点を突きました。
「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。
王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
イエスをかばえばかばうほど、ピラトが窮地に立っていくのです。
ピラトはイエスの無罪を確信しています。何とか釈放しようと努力をしているのです。
ところが当のイエスはあまりにも静か。
そしてピラトは裸の心で聞いたのです。
「お前はどこから来た。いったい、何者なのだ。」続きを読む
ピラトは…「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19章8〜12節)
ピラトはイエスを釈放しようと努めました。
しかしユダヤ人たちはイエスの死を求めるのです。
彼らはピラトの一番の弱点を突きました。
「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。
王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
イエスをかばえばかばうほど、ピラトが窮地に立っていくのです。
ピラトはイエスの無罪を確信しています。何とか釈放しようと努力をしているのです。
ところが当のイエスはあまりにも静か。
そしてピラトは裸の心で聞いたのです。
「お前はどこから来た。いったい、何者なのだ。」続きを読む
コーヒーブレイク・インタビュー(2009年11月7日、14日放送)
岩渕まこと氏(ゴスペルシンガー)
インタビュアー・吉崎恵子
歌を歌う気持ちもなくなってしまい…
―コロンビア(レコード)で声を掛けられて、そこからプロとしての活動が始まって…
二枚目のアルバムを出して、三枚目を作ってる時に、
もう全然曲が出来なくなっちゃったんですよ。
歌を歌う気持ちもなくなって。
―それは危機ですね。
それでレコーディングを途中で止めて、
しばらく休ませてもらうってことになったんです。
―休んでどうしたんですか?
家の近所に小坂忠さんていうシンガーソングライターの先輩がいて、
忠さんがある時「僕はクリスチャンなんだよ」って言ったんですよ。
それから時々、聖書持って家を訪ねてきて、
色々話してくれるんですけど何もわからなかったですね(笑)。続きを読む
インタビュアー・吉崎恵子
歌を歌う気持ちもなくなってしまい…
―コロンビア(レコード)で声を掛けられて、そこからプロとしての活動が始まって…
二枚目のアルバムを出して、三枚目を作ってる時に、
もう全然曲が出来なくなっちゃったんですよ。
歌を歌う気持ちもなくなって。
―それは危機ですね。
それでレコーディングを途中で止めて、
しばらく休ませてもらうってことになったんです。
―休んでどうしたんですか?
家の近所に小坂忠さんていうシンガーソングライターの先輩がいて、
忠さんがある時「僕はクリスチャンなんだよ」って言ったんですよ。
それから時々、聖書持って家を訪ねてきて、
色々話してくれるんですけど何もわからなかったですね(笑)。続きを読む
2009年11月06日
キリスト教とは何かー岩島神父の教義学講座(2009年10月2日放送)
第7回「神の恩恵」
神の恵みが人の中でどのような形で働くか
恩恵論についてお話したいと思います。
「恩恵」ということはキリスト教の教理の歴史の中で非常に大きなテーマです。
さかのぼってみると、古代のアウグスティヌス以来、
「神の恵みが人の中でどのような形で働くか」ということ、その働き方等々において、
恩恵にいろいろな名前がついています。
そういう体系化された恩恵というものはどんな種類があるのかということを
最初にご説明しておきたいんです。続きを読む
神の恵みが人の中でどのような形で働くか
恩恵論についてお話したいと思います。
「恩恵」ということはキリスト教の教理の歴史の中で非常に大きなテーマです。
さかのぼってみると、古代のアウグスティヌス以来、
「神の恵みが人の中でどのような形で働くか」ということ、その働き方等々において、
恩恵にいろいろな名前がついています。
そういう体系化された恩恵というものはどんな種類があるのかということを
最初にご説明しておきたいんです。続きを読む
2009年11月05日
望みなきときにも(2009年10月29日)
くびきを負い学ぶ マタイ11:25〜30
私たちはこの時代の中で、疲れ果て、苦労しています。
そのような私たちにイエスは「わたしのもとに来なさい」と呼びかけています。
その呼びかけに私たちは素直に素朴に応えているでしょうか。続きを読む
そのとき、イエスはこう言われた。「…疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書11章25〜30節)
私たちはこの時代の中で、疲れ果て、苦労しています。
そのような私たちにイエスは「わたしのもとに来なさい」と呼びかけています。
その呼びかけに私たちは素直に素朴に応えているでしょうか。続きを読む
2009年10月26日
祈りを学ぼう(2009年10月19日放送)
天におられる父(主の祈り1)
祈りは本質的には神様との交わりです。
そしてどの人間も生まれた時から神様に向かうように造られています。
だから人間の心には誰しも神様への憧れみたいなものがあって、
生まれながらにして祈りというものは身に付いていると思うんですね。
祈りは、決してとってつけたもんじゃないし、誰にとっても難しいものではなくて、
むしろ自然の憧れから溢れ出てくるものだと思います。
ただ現実には私たちは様々な誘惑にさらされて、ついつい自己中心になりがちですし、
神様との関わりをゆがめてしまうことがあります。
ですから〈祈りを学ぶ〉ということが必要なのかもしれません。続きを読む
祈りは本質的には神様との交わりです。
そしてどの人間も生まれた時から神様に向かうように造られています。
だから人間の心には誰しも神様への憧れみたいなものがあって、
生まれながらにして祈りというものは身に付いていると思うんですね。
祈りは、決してとってつけたもんじゃないし、誰にとっても難しいものではなくて、
むしろ自然の憧れから溢れ出てくるものだと思います。
ただ現実には私たちは様々な誘惑にさらされて、ついつい自己中心になりがちですし、
神様との関わりをゆがめてしまうことがあります。
ですから〈祈りを学ぶ〉ということが必要なのかもしれません。続きを読む
2009年10月24日
コーヒーブレイク・インタビュー(2009年10月17日放送)
清水清美氏(「上中居こどもクリニック」医師)
インタビュアー・吉崎恵子
三十年前から父が産婦人科の医院を地域で開いていたんですけれども、
そこが古くなった事、父が引退を考える時期、
そして私が結婚して子育てをしながら(病院の勤務医として)
小児科医を続けることに困難を覚えたのが重なったんですね。
それで父の医院の一部屋をもらって小児科を始めたのが十年前なんです。
妹は産婦人科で、私は小児科なんですが、
ちょうど同じ時期に妹も子どもが生まれて、
妹も私と一緒にクリニックをやっていきたいということになりまして。続きを読む
インタビュアー・吉崎恵子
三十年前から父が産婦人科の医院を地域で開いていたんですけれども、
そこが古くなった事、父が引退を考える時期、
そして私が結婚して子育てをしながら(病院の勤務医として)
小児科医を続けることに困難を覚えたのが重なったんですね。
それで父の医院の一部屋をもらって小児科を始めたのが十年前なんです。
妹は産婦人科で、私は小児科なんですが、
ちょうど同じ時期に妹も子どもが生まれて、
妹も私と一緒にクリニックをやっていきたいということになりまして。続きを読む
2009年10月06日
イエスの生涯を黙想する(2009年9月29日放送)
なぜイエスの生涯を黙想するのか
復活したイエス様の最初のメッセージは「あなたがたに平和があるように」(三六節)です。つまりイエス様の復活の第一の恵みは、「平和」ということなんですね。続きを読む
ルカによる福音書24:36〜49復活したイエスの第一声
36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
復活したイエス様の最初のメッセージは「あなたがたに平和があるように」(三六節)です。つまりイエス様の復活の第一の恵みは、「平和」ということなんですね。続きを読む
2009年10月02日
キリスト教とは何か−岩島神父の教義学講座(2009年9月4日放送)
第6回「人間の罪」
罪と恩恵の緊張関係
今回お話しする罪についてと、次回の恵みについて、
この二つの事柄は切り離せない関係にあり、
これらを併せて「神学的人間論」という言い方を
二十世紀になってからするようになってきました。
もともと「人間とは何か」ということは、古今東西、
哲学者も神学者も問い続けてきたことです。
多分一番良く知られている定義はアリストテレスの
「理性的動物」という定義です。
しかし、人間とはただ理性的存在だけではなく、
もっと広がりや奥深さもあると思うんです。
キリスト教の信仰では、人間は神様が造られた。
そして何のためにというと、神様ご自身の命に与るために
人は造られた、という訳ですよね。
すると、神の恵みに与ることが人間の究極的な目的であり、
存在意義であるということになります。
他方、人間の現実というのは、
本来の人間の現実に逆らう強い傾向がある訳です。
この現実を、キリスト教は罪と呼んでいるのですね。
つまり、キリスト教信仰の持つ人間の自己理解というのは、
罪と恩恵の緊張関係の上に成立している訳です。
こういった人間の実存の二重性は簡単に否定出来ない訳で、
そういう二重性を持って、どのように私たちは
神様の前に立つ事が出来るのだろうか、
その中で神様の救いって本当に何なんだろうか
ということを考えていかないと、
現実的な神信仰とは言えないということなんでしょうね。
続きを読む
罪と恩恵の緊張関係
今回お話しする罪についてと、次回の恵みについて、
この二つの事柄は切り離せない関係にあり、
これらを併せて「神学的人間論」という言い方を
二十世紀になってからするようになってきました。
もともと「人間とは何か」ということは、古今東西、
哲学者も神学者も問い続けてきたことです。
多分一番良く知られている定義はアリストテレスの
「理性的動物」という定義です。
しかし、人間とはただ理性的存在だけではなく、
もっと広がりや奥深さもあると思うんです。
キリスト教の信仰では、人間は神様が造られた。
そして何のためにというと、神様ご自身の命に与るために
人は造られた、という訳ですよね。
すると、神の恵みに与ることが人間の究極的な目的であり、
存在意義であるということになります。
他方、人間の現実というのは、
本来の人間の現実に逆らう強い傾向がある訳です。
この現実を、キリスト教は罪と呼んでいるのですね。
つまり、キリスト教信仰の持つ人間の自己理解というのは、
罪と恩恵の緊張関係の上に成立している訳です。
こういった人間の実存の二重性は簡単に否定出来ない訳で、
そういう二重性を持って、どのように私たちは
神様の前に立つ事が出来るのだろうか、
その中で神様の救いって本当に何なんだろうか
ということを考えていかないと、
現実的な神信仰とは言えないということなんでしょうね。
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