2008年11月18日

幸いを告げるうた―詩篇―(2006年10月20日放送)

第1回「詩篇を学ぶ」

あなたの喜び、呻きが すでに詩篇の中に

詩篇は、約千年間かかって旧約の時代にまとめられた、いろいろな人々が歌ったうたであると言われますが、どんなにその詩篇を歌った民たちを励まし、また同じようにキリストの教会の二千年の歴史においても、どんなに人々の信仰を助けてきたであろうかと思います。

マルチン・ルターが1528年にドイツ語で詩篇の第二版を訳したときの序文にこのような言葉があります。

「そこ(詩篇)で君は、美しき楽しい園を見るごとく、あたかも天国を垣間見るごとく、あらゆる聖徒らの心の奥底を見ることができる。この園には喜び溢れる心の花々が、神と神の恵みに対し、ありとあらゆる美しさ、喜ばしき思いに満たされて咲き誇っている。

また君は、嘆きの詩篇に歌われている悲しみの言葉よりもさらに深い痛切なる言葉をどこに見出しうるか。ここで君は死を見るごとく、あたかも地獄を見るごとく、あらゆる聖徒らの心の奥底を見ることができる。ここでは神の怒りに面してあらゆる陰惨な光景が繰り広げられ、その有り様は何と暗く閉ざされていることか。

かくして彼らは恐れや望みを語るに際して、いかなる匠の筆をもっても及ばぬ言葉をもって語り、キケロのごとき雄弁家といえども、彼らは到底太刀打ちできない。しかもこの上なく良きことは、彼らが神に向かい、神と共に、かくの如き言葉を語るという事実である。かくなればこそ、詩篇はあらゆる聖徒の座右の書となり、いかなる境遇にあろうとも、各人が心の境遇に最適の詩、最適の聖句を見出し、あたかも彼のために特別あつらえたるごとく、自分でもこれに勝るものを作ることも望むことも不可能なのを知る。…かくて君はキリスト教をありのままに写し出す真澄の鏡を手にしたことになる。然り、さらに君は鏡に映ずる自らの姿によって、『汝自身を知れ』の真の意味を悟り、さらに神ご自身と一切の被造物を見出すに至るのである。」

神様をほめたたえる賛美の中にも、あるいは人生の苦悩の中にも、地獄の底を見るような嘆きの中にも、これ以上の表現はないだろうという表現で、人生の喜怒哀楽の一切が詩篇の中に描き出されているという、驚くべき表現であります。

ですから私たちがよく詩篇を読んで味わってまいりますときに、私が出会っている嬉しいことは、本当にこんなに嬉しいことはないという表現で、どこの誰が表現するよりももっとあなたの喜びを表現している言葉が既に詩篇にある。

また、人生の最低のようなところをくぐり抜けていくときにも、あなたがもうこれ以上の表現はできないという呻きを発するときにも、その言葉は既に詩篇の中にあると言うのです。

嘆きのうたからはじまる たたえのうた

聖書の原典であるヘブライ語では、「詩篇」を「テヒリーム」と言います。これは「たたえのうた」という意味です。

ところが詩篇150篇ある中で、「テヒリーム」という言葉は145篇に一回しか出てきません。詩篇のうちの三分の一は、たたえるどころか嘆きのうたで満ちているのです。

にもかかわらずヘブライ人たちはこの詩全体を「たたえのうた」と呼んだのです。それは、嵐も苦しみも何もないところで言った「たたえ」ではないということを意味するのです。そのベースは嘆きのうたから始まると言ってもいいのです。

人生において多くの喜怒哀楽を私たちは経験するわけですけれども、その喜びの時だけではない、嘆きの時、苦しみの時、そういうむしろ嘆きのどん底をくぐり抜けてきたところの「たたえ」であるということです。

嘆きを知らない人々が「神様ってすばらしい」と言うんじゃなくて、本当に人生のどん底を這うようにして舐めた人間が、神様の救いの恵みを経験し、そして多くの神を信じる者たちと共に神を見上げるところに出てくる「たたえ」というのが、本当の「たたえ」なのです。
そしてまさに、私たちの人生の嘆きをたたえに変えてくださったのがイエス様だと言うことができると思います。

メシアの苦悩と喜びに通じている

詩篇は、イエス・キリストを証ししています。
ルカ福音書24章44節で、復活したイエス様が「モーセが言ったことも、預言者が言ったことも、詩篇の中に書いてあることも、全部わたしの生涯において実現した」とおっしゃいました。

もちろん、詩篇は千年間に渡ってあらゆる階層の人が作った詩で、王様も、労働者も、軍人も、お百姓も、いろんな人が書いているのですけれども、これらの人々が「このことはやがて来るイエス・キリストのことを言うんだ」と歌ったものは一つもないのです。

詩篇の作者たちは、その苦悩、叫び、あるいは喜び、神様の救いを感じたときに、詩篇を歌ったのです。けれども、深いところで人間が苦しみを味わい、その苦しみを神に訴えるというのは、まさに人類の苦悩を一切その身に引き受けてくださるメシアの苦難に通じるのです。

しかも信仰者の喜びは、何かを手にしたからという喜びではない、死をさえも打ち破るような喜びであり、まさにメシアが持っていた喜びに通じるのです。

ですから、詩篇を作った人々がそう思って作ったわけではないのですけれども、でき上がった詩篇の中に、内側からその壁に触るようにしてその内容を受けとめてまいりますときに伝わってくるのは、「これはイエス様のことだ」という思いであります。ですから、あの詩人たちの苦しみはメシアの十字架の苦しみ、あの詩人たちの人生は、あのメシアがそのように送るところだ。そういうふうに見ることができます。

わたしたちの人生が歌い込まれている

さらに、その詩篇の内容において、私たちの人生が歌い込まれているのです。人生は百人百色です。しかし全部、詩篇の記者たちに歌われているんですね。

詩篇の一番最初の言葉は、ヘブライ原語では「アシュレー(幸い)」(1篇1節)という言葉です。そして一番最後の言葉は「ハレルヤ(神をほめたたえよ)」(150篇6節)という言葉です。

この言葉は詩篇全体の内容を表した言葉だと思うのです。
神様が私たち人類にお与えくださった恵みは、私たちが幸せであることなんです。「幸い」というのは、神様が私たち人間に一番願っていてくださることです。
残念ながら人はこれをエデンにおいて失ったのでありますけれども、まさにその失ったものをもう一度回復される道―幸いな道があるとおっしゃる、そういう言葉ではじまるのです。
そしてその最後は、本当は幸いを失ってしまった私たちですけれども、それを再び回復することが神様の恵みによってできた。だから「ハレルヤ」と神をほめたたえるのです。

「ハレルヤ」というのは、神様に出会った者、神様によって造り変えられた者、幸いを再び手にした者が、神をほめたたえる言葉です。
失っていた人間、滅びに行くべき人間にも、生きる道がある。その幸いが約束されている。そしてその幸いを、試練や悩みがあるにもかかわらず、自分のものにすることができるというのは、神との関係を持った人間の本当の人生です。
この幸いな「ハレルヤ」という人生を歩ませていただいているということを念頭に置きたいと思います。

幸いを告げるうた―詩篇ー  (2006年10月20日放送分)
posted by FEBC Staff at 00:00 | TrackBack(0) | 幸いを告げるうた―詩篇― | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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