2008年05月16日

幸いを告げるうた―詩篇―(2008年5月16日放送)

詩篇第38篇 小さな育ちゆく信仰

詩篇38篇は、「嘆きの歌」と言われる詩篇の中でも、あまりに光の見えない、灰色に塗られてしまったような、少しも信仰なんて自分の内に意味を持ってこないと思われるような絶望の中における詩人の叫びであります。多くの学者たちに言わせますと、今日で言う末期がんのような病か、当時は「らい病」と言われた重い皮膚病にかかった人の歌ではないかと言われるわけであります。

そういう時、神様に「助けてくれ」と祈るべきですけれども、しかし人間というのはそういう絶望の中にありますと、私の上に神の怒りが臨んでいるのではないかというような恐れに囲まれるわけです。恐らくこの詩人は、罪に対する神の怒りを感じたのでしょう。

ですからこの詩篇は22節までありますけれども、ほとんど嘆きとつぶやきと訴えです。信仰なんてほんのわずか、お線香の光くらいにしか見えないような状況です。
主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、
激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
あなたの矢がわたしに突き刺さり、
あなたの手がわたしの上にくだりました。
あなたの怒りによって、
わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、
わたしの骨には健やかなところはありません。
わたしの不義はわたしの頭を越え、
重荷のように重くて負うことができません。
わたしの愚かによって、
わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、
ひねもす悲しんで歩くのです。
わたしの腰はことごとく焼け、
わたしの肉には全きところがありません。
わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、
わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
(1〜8節)

この1〜8節を見ますと、「犯した罪」というよりも、「自分という存在」はなんという罪深い者であろう。本当に自分の心の底の底まで知ったら、私なんか愛してくれる人は世界にいるだろうか。この詩人はそういう罪深さに気付き、この自分をどうして神が愛することなんてできようか、神の怒りのもとに自分は立っているんだと自覚したようであります。そしてその罪深さに対する神の怒りがどんなに深刻なものであるかということを嘆いているわけであります。


さらに、親しい友人、親族さえも自分から離れて、自分を疎ましく眺めているという状況があります。

わが友、わがともがらは、
わたしの災を見て離れて立ち、
わが親族もまた遠く離れて立っています。
わたしのいのちを求める者はわなを設け、
わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、
ひねもす欺くことをはかるのです。
(11〜12節)

本当に辛かっただろうと思うんですね。まったく絶望の人間の世界。人と人との間柄も何の役にも立たない。叫んでみてもその叫びが返ってくるような、そういう絶望の中でこの歌は歌われ抜いたわけです。


しかしその中に、本当にかすかに残っている主への信仰が見られるのです。わずかに残るその火を、神様は燃え立たせてくださって、再び自分を神に向けてくださるのです。

主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、
わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
(9節)

私は心臓を病みましたとき、「ああ、自分は心臓が悪いんだ」という思いが、朝起きた途端にワーッと広がってくるんですね。それを重ねていきますと、希望は持ちにくいものだと思うんです。朝が来ても「今日も治らない。この病が自分にはあるんだ」と思うんです。

しかしそういう中でこの詩人は、「その思いを、あなたはすべてご存知でおいでになる。私の嘆きを誰も理解しなくても、このお方だけは知っておいでになる」と言ったのです。現実の中で、神様というお方が私を知っていてくださるという灯火がここにございます。かすかな、線香の火のような信仰。「神は私を知っておいでになる。」それは本当にかすかでも、打ち消すべきものではないのです。

そしてそのかすかな火が神様への信仰の光となって灯ってまいります。

しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、
あなたこそわたしに答えられるのです。
(15節)

この「しかし」という言葉は「ただひたすらに」という意味です。「あなたを待ち望みます」という言葉は、ヘブル語では完了形で、非常に強い言葉なんです。神に対してこの詩人は決断をしたのです。


けれどもその後、詩人の心は揺らぐのです。

わたしは倒れるばかりになり、
わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
わたしは、みずから不義を言いあらわし、
わが罪のために悲しみます。
ゆえなく、わたしに敵する者は強く、
偽ってわたしを憎む者は多いのです。
悪をもって善に報いる者は、
わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
主よ、わたしを捨てないでください。
わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
(17〜21節)

しかし、主の前にしたその決断を、詩人よりも神様ご自身がお受けくださったという事実があったことを見逃してはなりません。私たちは「信じた」と思う。でもその舌の根が渇かないうちから、上がったり下がったりするような弱い者です。けれども私たちがひとたび神に向かって「主よ、あなた以外にご信頼申し上げるものはありません」と自らを差し出すときに、このお方はそれを受け取っていてくださるのです。

そして遂に22節で「主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください」と、神に向かって叫ぶことができるようになっていった、この詩人の祈る姿があるのです。私たちは苦悩や問題を抱えて主の前に出て行くときに初めて、私たちの信仰が突き抜けて、神様の前に期待と祈りとを投げかけることができると思うんですね。

しかし、ここまでしかこの詩人は歌っていないのです。これは旧約聖書の限界と言ったらいいでしょう。


イエス・キリストというお方は、弱い私たちと同じ人間になってくださったのであります。人間はどんなに信仰を持ったところで、祈ったところで、いろいろなことの中に信仰なんてかき消されてしまうような弱い者です。神が人間になってこの世界においでになったということは、その弱い人間の姿になられたのです。

私はこの詩人の姿を、イエス様のご生涯の中に見るのです。

イエス様は私たちの罪を負われて、十字架の上で父から捨てられたのです。「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや」と言ったのです。ところが、最も親しい者である父なる神が、自分に顔さえも見せない、その孤独の中で、「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」と、ご自分を捨てられた父に向かって最後まで信仰を持ち続けました。

一本の命の綱が、人間から神に向かって、あのカルバリの十字架から天に向かって投げかけられましたように、この一本の御子の真実が父のもとに届いていった。その信仰のゆえに、私たちは罪を一切解決されるのです。

まさにこの詩篇の詩人の本当の解決は、あの十字架の上において「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」とおっしゃったイエス様の真実によって完成されたと思うのです。

幸いを告げるうた―詩篇―」(08年5月16日放送)
posted by FEBC Staff at 09:00 | TrackBack(0) | 幸いを告げるうた―詩篇― | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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