2008年05月08日

神父さま、こんなこと聞いてもいいですか?(2008年5月5日放送)

第5回 病気は何かの罰?

〈質問〉うつ病になり、仕事も出来なくなりました。毎週欠かさず教会に行って、毎日欠かさずお祈りもしているのに、なぜこんなことばかりが起こるのでしょう。思い出せる限りの罪を悔い改めました。それでも一向に病気は治りません。もうこれ以上何をしたらいいのか分かりません。これは何かの罰ですか?


百瀬 まず最初に、病気と宗教とを切り離して考えることが必要だと思います。病気が罪の結果だとか罰だという考え方を捨てなければいけません。


 人間ですから出来る事と出来ない事はあります。ですから、そういう時には、自分に出来る事を考えて何とか対処するということが大切だと思います。
そして、そこで下手に宗教を持ってこないことが大切です。こめかみに青筋を立てながら神様に祈っても、そのお祈りは異常な状態でやっているのですから、ますます自分を疲れさせてしまうかもしれません。


 トマス・アクィナスという学者がこんなことを言っています。
信仰の危機の時には、「よく食べなさい」「よく眠りなさい」「お風呂に入りなさい」「友を訪ねなさい」と。
そして最後の五番目に大切なこととして、「神の前に泣きなさい」と言うんです。
偉そうな祈りをしなくていいんです。自分の惨めさをさらけ出して泣くだけ泣くんです。悲しい事、苦しい事、全部打ち明けて泣きなさいと言っています。 鬱というのは自分ではどうしようもないようなものです。だから、そこで無理に「神様にお願いする!」なんてしないで、自分が出来る事を出来る限りやること。それから、「泣きなさい」と。「治してください」と言う前に「泣きなさい」なんです。
自分を責めないでいいから、まず休むこと。軽い運動をして、お風呂にでも入って、くつろぐこと。
自分の弱さや欠点、そんなことを全部忘れて、ありのままをまず受け入れることが大切じゃないかと思います。


 病と宗教とを混同してはいけないということを申し上げましたが、とりわけ鬱の方には、罪とか罰を考える傾向があります。けれども、神様は罰をお与えになるようなことは絶対にありません。そして、病気は罪とは関係がありません。


 確かに、聖書の中には人間の罪を糾弾する神様のお姿が描かれています。そして心の病の方はそういうところにばかり注目してしまうようです。
確かにイスラエルの民は歴史の中で非常に苦しい経験をしてきました。そして彼らはその事を神の罰だと理解しました。せっかく神様が特別な恵みを与えてくださったのにそれを忘れて、神様の計らいを無にしてしまったから、だからこんな不幸が降り掛かったのだと考えたのです。


しかし同時に、彼らは自分たちの背きにもかかわらず、神様はあくまでも忠実で、ずっと守っていてくださって、呼びかけていてくださると信じていました。「神様はご自分に呼ばわる者を見捨てられることは無いんだ」という深い信仰に生きていたのです。
私たちはこの信仰の姿を忘れてはいけないと思います。


 神の裁きや怒りという言葉も、おごり高ぶる者には恐ろしいことかもしれませんが、貧しい者、傷ついた者、神の救いを待ちわびている者には、救いそのものなんですね。
神の怒りは、罰するためではなく、何か人を脅かしたりするためでもなく、神様から離れてしまう時に、自分の罪の結果陥ってしまう不幸のことを言うんだと思います。


吉崎 親心なんですね。


百 ええ。だから、心を病む方に伝えたいのはこういうことです。
 神様は一人ひとりのことを思っていてくださって、今悩んでいるあなたのことも気にかけてくださっている、何も心配しないで父の御旨に委ねなさい、そうすればきっと導いてくださるだろう。
今の試練は何のためか、私たちには分からないけれども、思い悩むよりも、その思いや自分の弱さや苦しみを全て神様に捧げて、そして神様が、いつかもっと大きな喜びをもって賛美することが出来るようにしてくださることを待ち望みましょう、と。


吉 「もう祈らなくっていい」ということを聞いたことがあったのですが、そういう強迫的な祈りだったら止めちゃっていいっていうことなんでしょうね。
聖霊が呻くように祈っていてくださるし、自分の熱心な祈りによって困難から抜け出そうとしないでいいから、委ねなさいという意味なんですね。


神父さま、こんなこと聞いてもいいですか?』(08年5月5日放送)
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