2008年05月16日

全地よ 主をほめたたえよ(2008年5月18日放送)

「後ろのものを忘れて」

日本基督教団 藤沢北教会
藤盛勇紀師

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る事です。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(フィリピ三章一二〜一六節)



前向きな生き方

パウロの語る信仰のスタイルというのは、明らかに一つの具体的な姿勢を示しています。それは、前へ向かうスタイルです。
前向きに生きる、ということが一つの理想的な生き方のようにも言われます。それは、明確に選んだ一方向に向かおうとする、意味の充満した生き方です。

信仰によって生きる生き方にも、明確な姿勢があります。それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、そして「ひたすら走る事」です。そしてこれがなすべきただ一つの事だと言うのですから、これは信仰生活の基本形だと言っていいと思います。

でもどうして、ひたすら前へなのでしょうか。それは、目標があることによって初めて、どちらが前で、どの方向へ向けばいいのかが分かるからです。今を生きるために

私たちの目標とは何でしょうか。パウロはキリストによって賞を得るのだと言っています。
目指すのはキリストなんです。言い換えれば、キリストの許で私たちの競技は終わるということです。
安心して、競技を終える事が出来る。そしてそこには賞がある。つまり、終わりこそが大事だということです。

私たちは充実した人生を生きたいと願って、今を大切にしようとします。しかし、その「今」の生き方に意味を与えるのは「終わり」なのです。
私たちの人生は死をもって終わります。その意味で、私たちの人生は死を目指して走る競技だとも言えます。とすると、私たちの人生は死がゴールなのでしょうか。


死ぬまで主に捕らえられ

パウロは、目標を捕らえようと努めていると言っています。どうしてこんなに必死になって走れるのか。それは、今、自分がキリスト・イエスに捕らえられているから、とパウロは言うんです。

このパウロを捕らえ、そして私たちをも捕らえていてくださるキリストは、一人の人生を確かに意味あるものにして、そして死をも突き抜けて走らせる力を持っておられる、生きておられる御方です。
私たちが神と共に生きるために、神の命に生きるために、主イエス・キリストは、私たちの死ぬべき死を死んでくださり、その死を打ち破って甦ってくださいました。そして、今生きて私たちを捕らえることの出来る御方です。

ですから、死に向かう人生であっても、あるいはあらゆるものを失い、何もかも出来なくなっても、生きる意味は薄まりません。死ぬまで、主に捕らえられ、主に支えられて、慰められて、叱責されて、励まされながら、生きていいんです。

私たちが「前」という時に、どっちを向いている事なのか、何を見ていることなのか。
それは私たちのために呪われて十字架につけられた、主イエスです。この御方を見ているという事が、私たちの「前向き」なんです。
ですから、前向きというのは単なる積極性ではありません。今、天におられてやがて来られるキリストに向かって目を上げて生きる事です。その姿勢がかっちりと決まっているということが「前向き」ということなんです。


キリストの許でこそ

私たちはこの世のどこかに故郷を持っています。「懐かしい時代」も持っています。しかし、私たちの帰るべき所はそこではありません。
私たちの行くべき場所は後ろには無いんです。だから、後ろのものは忘れていいんです。

ところが、私たちは後ろのものを忘れられません。忘れられないどころか、後ろのものにいつも捕らえられてしまいます。
麗しい過去、楽しかった思い出、あるいは逆に、思い起こしたくもない過去や失敗ということでもあります。
帰っていく事など出来もしない過去にしがみついたり捕らえられて、そこから抜け出せない。それで、私たちはなかなか前向きになれないのです。でもどうしたらいいのでしょうか。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ人への手紙一二章一、二)


絡みつくものをかなぐり捨てて、走って行こう。そしてそれは、「イエスを見つめながら」だと言うんです。
十字架に付いてくださり、そして復活して神の右に座しておられるイエス・キリストを見つめながら、私は走れると言うのです。
十字架のイエスを見つめる時、過去のあの罪、あの失敗、あの恥、あの取り返しの付かない間違いに、もう捕まってしまう事が無いのです。私たちはキリストの許でこそ、重荷を降ろす事が出来ます。そうやって、私たちは前へ向かうのです。

だから、キリストを見つめる時、私たちの行くべき場所はこの世のどこかでは無いということが分かってきます。麗しい過去があっても、それは忘れていいんだと言う事が分かってきます。


本当のふるさとを目指して

私たちにとって本当に懐かしく慕わしい場所、本当に帰りたい場所は、この世のどこかにあってはいけません。それは天にあるんです。
その希望が、いろいろな損得勘定をして生きている私たちを解放してくれます。自由になって、仕えて生きるということが出来るのです。

キリストを見つめて生きる時に、仕えて生きるという事が断然意味を持ってきます。死に向かって生きるという事が意味に満ちてきます。

若い時、目一杯働けるときが人生のピークではないのです。人生の最期こそが、希望の時でありクライマックスなのです。
確かに約束された賞が近くにあって、故郷がすぐそこだからです。キリストに捕らえられている人生とはそういうものではないでしょうか。本当の意味で、それこそが前向きの人生なのではないでしょうか。

私たちも今を大切に生きたいと願い、人生を充実させたいと願います。しかしそれは、「私の生き甲斐はどこにあるのか」とか「人生とは何なのか」とか、この地上を這いつくばって生きる姿勢とは違うのです。
後ろのものを忘れて、安心して前のものに全部を向けるのです。キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞を目指して、私たちは上を見続けるのです。

キリストが今おられる上、そこから来てくださる天。私たちの本国、賞が用意されている天。キリストという前を見て、私たちは目を上げて進んでよいのです。それが、私たちの命の道ですし、私たちの今の力ですし、今を走り続ける私たちの希望です。

(文責:月刊誌編集部)

全地よ 主をほめたたえよ』(2008年5月18日放送)
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