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<title>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？（2008年6月30日）</title>
<description>第十三回 「聖書の読み方って？」質問クリスチャンって進化論を認めないって本当ですか？聖書に書いてあるとおり地球は六日間で出来たとか、本気でそんなことを考えている人が今どきいるなんて信じられません。なんだか、そういう人たちの考え方は狂信じみていて怖く思います。聖書には、科学的にはめちゃくちゃなことがいっぱい書いてあるのに、そんな本を一生懸命読んでいる人たちがいると思うと、不思議でたまりません。百瀬 私自身は進化論を当然のことと思っています。でも、自分のキリスト者としての信仰とは...</description>
<dc:subject>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-30T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">第十三回　「聖書の読み方って？」</span></strong><br /><br /><blockquote>質問<br />クリスチャンって進化論を認めないって本当ですか？<br />聖書に書いてあるとおり地球は六日間で出来たとか、本気でそんなことを考えている人が今どきいるなんて信じられません。<br />なんだか、そういう人たちの考え方は狂信じみていて怖く思います。聖書には、科学的にはめちゃくちゃなことがいっぱい書いてあるのに、そんな本を一生懸命読んでいる人たちがいると思うと、不思議でたまりません。</blockquote><br /><br />百瀬<br />　私自身は進化論を当然のことと思っています。でも、自分のキリスト者としての信仰とは全く矛盾しないんですね。<br />　今日では、たくさんのクリスチャンの科学者が進化論を支持していますし、他方では、聖書学の発展に伴って、聖書の読み方そのものも今ではもっと解明されていると思います。<br /><br /><br />例えば創世記は、古代の民族が自分たちの伝承を言い伝えて、それを通して非常に深い信仰を語っているんですね。自分たちの人生に対する教訓としてそういう言い伝えを語っている。そういう風に聖書を読みますと、一つも矛盾しないんですね。<br /><br /><a name="more"></a>　良い一つの例がテイヤールド・シャルダンです。彼は北京原人を発見した人の一人で、有名な古生物学者でイエズス会の司祭でした。<br /><br />彼は「神様の創造というのは、一つのプロセスだ」と言うのです。<br />今ある世界の秩序をそのまま神様が創造なさったのではなくて、長い長い歴史を通して出来た。<br />しかし、その過程が決して偶然ではなくて、それが神様の創造のわざなんだ、と。<br /><br /><br />　そのプロセスの素晴らしさは、知れば知るほど「単に偶然だ」なんて言えないですよ。<br />私たちの体の動きや体の器官を見たってそうじゃないですか。私の手の中にどれほど複雑な構造があるか。それが「単に偶然にそうなった」なんて、本当に考えていったら言えないと思いますね。<br /><br />　私たち信仰者は、信仰の目で見ると、それはやっぱり神様の創造のわざなんだと考えるわけです。<br />ですから、物事を分析する自然科学の見方と、その背後に神様の導きを見る信仰の見方というのは、全然矛盾しないと思いますね。<br /><br /><br />　私の子どもの頃の思い出なのですが、毛の長い犬を飼っておりまして、夏になると自然に毛が抜けるんです。<br />　その毛を掃除ながら母が、「神様はちゃんと犬の毛が抜けるようにしてくださっているんだ」って言うんですよ。<br />　そうすると、その頃はまだクリスチャンじゃなかった父が、「そんな事を言うから私は神様を信じられないんだ」と言うんです。「犬は暑くなれば毛が抜けるように出来ているんだ、科学的に説明できる」と。<br /><br /><br />　私はそれを聞いていて、父と母の見方とは全然矛盾しないなと思ったんです。<br />つまり、犬の毛が何故抜けるかということは自然科学的に説明出来ますよ。だけど、そういう風にお造りになった神様がいらっしゃるというのを、母は直感的に感じ取ったわけですよね。<br />ですから、自然科学の見方と信仰の見方というのは、矛盾が無いだけでなくて、お互いに補い合うものじゃないかなって思うんです。<br /><br /><br />　人間というのは、大人になってふと気がつくと、「ここ」に存在しているわけです。「私はここになぜ存在しているんだろう」「私はどこから来てどこへ行くんだろう」。これは誰でも問う事ですね。<br />イスラエルの人々は、このことを「私がここに居るのは偶然じゃない、神様が私をお造りになったからだ」と信仰を持って応え、それを創世記という形で証言しているのです。<br /><br />だから、彼らの表現は自然科学的にはとても受け入れられないと思うかもしれないし、何百年何千年も前の人が書いた物ですから、当然その人達の当時の考え方とか、その当時の表現の仕方でもって書かれていて、今の私たちからしたら変な事ってたくさんある訳です。<br /><br />でも大切な事は、そういった歴史的な限界や状況に縛られているにもかかわらず、イスラエルの民が非常に深い信仰体験をしていて、人生の歩みに深い洞察を持っているということです。<br /><br /><br />　確かに現代人は科学や技術において彼らよりずっと優れているんですけれども、目に見えるものしか見ていない。<br />あの古代の人たちが信仰の目をもって人生の真理を見通した洞察力を私たちは持っていないかもしれないんです。<br />だから、聖書を読む時には、彼らの研ぎすまされた信仰の眼というものを学んで、彼らが語っている真理を受け止める事が大切じゃないかと思います。<br /><br /><br />吉崎<br />　多くの方は、主イエス様がたくさんの奇蹟を行われたという事についても「信じられません」とおっしゃられるんですが。<br /><br /><br />百瀬<br />　いろいろな読み方があると思いますが、根本的には、新約聖書は復活信仰によって書かれている訳なんです。<br />十字架の時にイエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちがこの信仰を持って再び集まってくる。<br /><br />このイエスの復活ということは、科学的に説明できるものではないし、歴史家にとっては不思議なことなんです。<br />けれど確かな事は、イエスの復活を確信して、それを証言している弟子たちがいるということと、あんな臆病で逃げ回っていた弟子たちが非常に強い信仰と確信を持って、今度はどんな権力者も弾圧出来ず、どんな学者も言い負かす事が出来ない勇気と力を持って「イエスは復活させられた」と語るわけですね。<br /><br /><br />　だから、新約聖書は「文字通り」歴史の事実を語っているんじゃなくて、彼らの信仰を語っていて、彼らがその信仰を伝えようとしているんだというメッセージを読むんです。<br />そうすると、「本当に水の上を歩いたんですか」なんて質問しなくなっちゃいますよ。<br /><br /><br />　古代の人が自分の信仰を彼らの仕方で表現しているということに気づく事、そして彼らが語ろうとしている信仰の神髄を聴き取る事が出来たら、それは読む人一人ひとりに特別のメッセージを持って呼びかけているかもしれないんです。<br />それを読み取る時に、私たちは「これこそ神の言だ！」という風に理解するのです。<br /><br />（文責:月刊誌編集部）<br /><br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/catho/index.html" target="_blank">神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</a>』（2008年6月30日放送）
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<title>田辺 保、パスカルを語る（6月13日放送）</title>
<description>第３回 「パスカルと病気」田辺 パスカルはずっと様々な病に苦しんでいたのですが、「病気というのは、キリスト者の本来のあり方だ」という事を彼は書いています。それはきっとこういう意味でしょう。病気によって、私たちは本当の病気が何であるかを知る事が出来る。健康に恵まれて幸せに暮らしている人はこれが分からないけれども、病気というのは一つのお恵みなんだと。これによって私たちはもっと大きい病気、つまり魂が病んでいるということを教えられるんだということです。</description>
<dc:subject>田辺 保、パスカルを語る</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-13T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">第３回　「パスカルと病気」</span></strong><br /><br /><br />田辺　パスカルはずっと様々な病に苦しんでいたのですが、「病気というのは、キリスト者の本来のあり方だ」という事を彼は書いています。<br /><br /><br />それはきっとこういう意味でしょう。<br /><br />病気によって、私たちは本当の病気が何であるかを知る事が出来る。<br /><br />健康に恵まれて幸せに暮らしている人はこれが分からないけれども、病気というのは一つのお恵みなんだと。<br /><br />これによって私たちはもっと大きい病気、つまり魂が病んでいるということを教えられるんだということです。<br /><br /><a name="more"></a>　<br /><blockquote>「神様、この病気をどうぞ良いようにお用いください。<br /><br />どうかこの病気のためにくじけないようにして下さい。<br /><br />私はあなたの教会にもあまり行けませんし、人々のためにも尽くせません。<br /><br />私があなたにお捧げできる賜物はこの苦しみだけです。<br /><br />この苦しみをひっさげて、あなたの許に参ります。<br /><br />あなたもお苦しみになりました、でもあなたの苦しみに比べれば私の苦しみは何でもありません。<br /><br />でも、あなたの苦しみに良く似たこの苦しみを、どうかあなたが御目をかけてください。<br /><br />これだけをあなたの前にお祈り致します。」</blockquote><br /><br /><br />これは、『病の善用を神にねがう祈り』というもので、パスカルが残した遺稿の中でもとても美しい祈りの文章です。<br /><br /><br />一六六二年八月一八日夜、「さあ、あなたが待たれた聖体がここにあります。」と司祭が言った時、<br /><br />パスカルはパッと目を開いて、ベッドの上に座り直し、<br /><br />うやうやしい態度で「神様、私をお見捨てにならないでください」と最期の告白をし、聖体をおしいただいて、そして亡くなっていったそうです。<br /><br />（文責:月刊誌編集部）<br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/program/pasc.html" target="_blank">田辺 保、パスカルを語る</a>』（2008年6月13日放送）
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<title>コーヒーブレイク・インタビュ（2008年6月14日、21日放送）</title>
<description>塩谷達也さん（ゴスペルシンガー） インタビュアー・吉崎恵子●これは何かあるな●僕は中学生のときからバンドをやってて、ＩＣＵ（国際基督教大学）に入ってからはずっとブラックミュージックをやってたんですね。そのサークルに一人の学生が入ってきまして、彼は牧師の息子で、「この曲やろうよ」って持ってきたのが、黒人霊歌って言われている、名もない黒人奴隷たちが作った賛美だったんですよ。それをやったときに、背景もわかんなかったし、内容も理解していなかったけれども、ビーッ！っと、なんかもう稲妻み...</description>
<dc:subject>コーヒーブレイク・インタビュー</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-12T15:54:58+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">塩谷達也さん（ゴスペルシンガー）</span>　インタビュアー・吉崎恵子</strong><br /><br /><strong><span style="color:#006598;">●これは何かあるな●</span></strong><br /><br />僕は中学生のときからバンドをやってて、<br />ＩＣＵ（国際基督教大学）に入ってからはずっとブラックミュージックをやってたんですね。<br /><br />そのサークルに一人の学生が入ってきまして、<br />彼は牧師の息子で、「この曲やろうよ」って持ってきたのが、<br />黒人霊歌って言われている、名もない黒人奴隷たちが作った賛美だったんですよ。<br /><br />それをやったときに、背景もわかんなかったし、内容も理解していなかったけれども、<br />ビーッ！っと、なんかもう稲妻みたいのが自分の中に来たのがわかったんですよ。<br />賛美ってすごく力があるじゃないですか。<br />聖書も読んだことがない、教会に行ったこともないっていう人でも、<br />賛美に触れられて、そこに主が働いてるっていうことをわかったりするんですよね。<br />僕はそんなことは何も知らなかったですけど、<br />でも、これは何かあるなと思いました。<br /><br /><a name="more"></a><span style="color:#006598;"><strong>●「ごめんなさい」●</strong></span><br /><br /><strong>―そのこととキリスト信仰とがどうやって結びついたんすか？</strong><br /><br />そこにはちょっと時間の流れがありまして。<br /><br />僕が小学四年生のときに両親が離婚したんですね。<br />父が借金抱えてサラ金に追っかけられたりして、<br />逃げるように僕と母と姉と猫とで…。<br /><br />僕は母が好きだったので、その母が苦しんでるのを見てたんで、<br />親父に対しての憎しみっていうのはすっごく強くて。<br />その思いを音楽にぶつけたんですね。<br />「このやろー」っていう、ネガティブパワーっていうんですかね。<br /><br />親父も本当に辛い生い立ちを持ってまして。<br />親父は両親を知らないんですね。<br />だから「俺はどうせ…」っていうものを持っていて。<br />人に迷惑をかけても不思議なくらい平気なんですよね。<br /><br />ある時、その頃僕はミュージシャンとして活動していて、<br />コンサートの移動中に、母親から携帯に電話がかかってきたんですね。<br />父の実の母親っていう人が亡くなって、<br />親父はどこからかその情報を得たと。<br />でも親父のお母さんは新しい家庭を作っていて、孫もいて、<br />親父はいないことになってるんですね。<br />それで「俺が突然その葬式に顔出してもパニックになるだろうから、一人で墓参りでも行きゃあいいと思ってるんだ」<br />って親父が言ってたって母が言うんですよね。<br />僕はもうずっと親父を憎んでたんで、<br />「あ、そう」ぐらいな感じで…。<br /><br />でも一人暮らししてたアパートに戻ったら、ふと魔が差したのか、<br />それまでの俺としては一番やってはいけない、親父の身になっちゃったんですよね。<br />「一人で墓参りすりゃあいいんだ」って言ってる親父の気持ちが、<br />洪水みたいにブワーッて来ちゃったんですよ。<br />親父っていうのは本当に寂しい、もうとにかく寂しいって…。<br />涙が出てきたんですね。<br />親父のことで泣いたこともないし、泣いてはいけないと思ってたんですけど。<br /><br />ちょうどその半年くらい前から、なぜか、<br />先ほどお話しした大学の友人のお父さんが牧師の教会に何回か顔出し始めてたんです。<br />そのとき、罪の話とか十字架の話とか聞いてもまったくわかんなかったんですよね。<br /><br />でもアパートで一人で親父の気持ちになっちゃってる時に、<br />よくわかんないんですけど「ごめんなさい」っていうのが出てきたんですよ。<br />祈り方とかもわからないので、<br />「神様、ごめんなさい。これがあなたの言っている罪っていうんだったら、赦してください」<br />とだけ言ったんですよね。<br /><br />それまでの俺っていうのは、<br />親父に「自分がされたこと」っていうのを握りしめてきたんですよ。<br />だけど親父がされたこと、傷ついたことっていうのは一度も考えたこともなかったし、<br />自分のことしか考えてなかったんですよ。<br />これが罪かって思ったんですよね。<br />それで「ごめんなさい」っていう言葉がバーッと出てきて、<br />祈ったというか叫んだというか。<br />そうしたらば、本当に不思議な感覚だったんですけど、<br />それまで自分で子どもの頃から頑張ってきた肩の重荷が降りたような感じがしたんですね。<br />僕はあの時に救われたと思うんです。<br />その年のクリスマスに洗礼を受けたんですけど。<br /><br />だから僕はもう黙ってられないですよね。<br />いろんなところで「すごいぞ、イエス様は」って言いふらしてんですよ（笑）。<br />それはもう俺の人生が変わったんだっていうことです。<br />だから親父にも伝えてるし…。<br /><br /><strong>―じゃあお父様にその後お会いに…。</strong><br /><br />そうなんです。<br />僕の家族、親戚は親父に迷惑をかけられっぱなしなので誰も連絡したくないんですよ。<br />僕は自分が救われてから、だんだん親父を許すっていうのが自然にできるようになって。<br />これは奇跡だと思うんです。<br />親父も「俺が達也を傷つけたのに、達也がこんなに変わった。達也の言うように生きてみようかなと思う」とか言うんですよ。<br />親父にも母にも姉貴にも救われて欲しい、そう思いますよ。<br /><br /><br /><strong><span style="color:#006598;">●教会の外に出て●</span></strong><br /><br /><strong>―それじゃあ、昔歌っていたゴスペルと今のゴスペルはえらい違いじゃないですか、ご自身にとって。</strong><br /><br />僕はブラックミュージックをずっとやり続けて、<br />ニューヨークのハーレムまで行って本物を経験して。<br />でも、何か一つのスタイルを追求していくっていうのでは、<br />自分の中にある傷から生い立ちから、そういうもの全部表現することはできないなって、<br />自分の表現の限界を感じ始めてたんですけど、<br />今、そういうブラックミュージックに対するコンプレックスとか無いんです。<br />なぜかっていうと、これは僕の、神様にささげている、僕にしかできない、僕のゴスペル。<br />だから何歌ってももうゴスペルなんです。<br />スタイルじゃないんです。<br />だって神様は一人ひとり違う人生を与えて、<br />その人にしか歌えない歌があって、<br />その人にしか生きてこれない人生があって、<br />それをもってお返ししていくわけですよね。<br />だから、切磋琢磨して最高のものをささげるという努力をしながら、<br />自分の持っているそのままのもので歌っていくんだって。<br /><br /><strong>―今はどんな働きをしてらっしゃるんですか？</strong><br /><br />普段は学校で教えてまして。<br />カルチャースクールや、普通の専門学校の講師をさせてもらってるんです。<br />これが不思議に、教会では絶対タッチできないところで実りがあって。<br /><br />今、ゴスペル歌ってる人が数万人、日本にいまして、<br />それは教会ベースだけじゃなくて、<br />カルチャーセンターもあればボランティアのグループもあれば公共の自治体がやっているのもありますし、<br />そういうところでどういうふうにゴスペルのエッセンスであるイエス様の愛を伝えるのかっていうのが課題になってるんですよね。<br />教会とゴスペルの働きをつなぐものがないんです。<br />その間に入る働きをいろんな形でやらせてもらってて。<br /><br />そこで目を開かされて学ばされたことっていうのは、<br />参加しているキリストを知らない人たちが、大きな声を出して<br />「イエス様～　あなたを崇めます～」とか歌ってるんですよ。<br />何もわからず。<br />これ、すごいんですよ。<br />そういう単純に歌っている姿の中で、<br />彼らは神様に触れられていくんですよね。<br />理屈じゃないんです。<br />賛美してるんです、自動的に。<br /><br /><strong>―頭は付いてこなくても…。</strong><br /><br />最初は、それはまずいんじゃないかと思ったんですね。<br />でもそんなことの前に、ノンクリスチャンの人が歌っているその時、<br />その人たちの心の中にある恵み、触れられている感覚、<br />そっちを大切にしたいんですよ。<br />そこで明らかに神様が働いてるし。<br />そこから伝道していくっていうことが問われているんであって、<br />その最初の種がまかれているところを批判してもしょうがないことだし。<br />同じ視点で一人のクワイヤーのメンバーになってみると、<br />これは本当に神様が働いてくれたプレゼントなんだって。<br />この日本の地でなぜゴスペルがこんなふうに流行ってるかっていうこと。<br />1パーセント未満のクリスチャンの中で。<br />これは見逃せないです。<br /><br />「教会じゃなきゃ何もできない」っていうんじゃなくて、<br />外に出て、イエス様と共にいながら、自由にやって欲しいと思うんですよね。<br />教会でライブすればみんな温かくしてくれる。<br />でも外のライブハウス行けば、良かったら拍手してくれるけど、<br />「なんだこれ」っていうんだったらシラーっとしますからね。<br />だから教会の中で何かやりたいっていうのはわかるんです。<br />でも、教会の外に出て、そのまま同じようにできれば<br />もっと素敵じゃないかなって思うんですよね。<br /><br />「<a href="http://www.febcjp.com/program/cbi.html" target="_blank">コーヒーブレイクインタビュー</a>」（08年6月14、21日）
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<dc:date>2008-06-12T15:54:58+09:00</dc:date>
<dc:creator>ads by Seesaa</dc:creator>
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<title>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？（6月9日放送）</title>
<description>第10回 「死んだらおしまい？」質問 人は生まれて死んで、それでおしまいだとある人が言っていました。もし本当にそうだとしたら、一生懸命生きても結局何にもならない気がして、とても虚しくなったことを覚えています。私は特定の宗教を信じたことはありませんが、本当に人は生まれて死んで、それっきりなんでしょうか。百瀬 この方のおっしゃる通り、もし人が生まれて死んで、それでおしまいだとしたら、本当に虚しいですね。唯物主義の考え方だと、生きているのが全てだから、この世で成功しなくちゃいけない...</description>
<dc:subject>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-09T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">第10回　「死んだらおしまい？」</span></strong><br /><br /><blockquote>質問　人は生まれて死んで、それでおしまいだとある人が言っていました。もし本当にそうだとしたら、一生懸命生きても結局何にもならない気がして、とても虚しくなったことを覚えています。<br />私は特定の宗教を信じたことはありませんが、本当に人は生まれて死んで、それっきりなんでしょうか。</blockquote><br /><br />百瀬　この方のおっしゃる通り、もし人が生まれて死んで、それでおしまいだとしたら、本当に虚しいですね。<br />唯物主義の考え方だと、生きているのが全てだから、この世で成功しなくちゃいけない、獲得しなくちゃいけない、だから他の人を踏みにじってもいいんだということになって、弱肉強食の冷たい世界が生まれてくるでしょう。<br /><br /><a name="more"></a>キリスト教では永遠の命を信じます。<br />そして、この世の命というのは、この永遠の命へと成長するための準備の時だと考えます。<br />ですから、この世の価値ではなくて、むしろ永遠の命こそが私たちの最終の目標であって、<br />この人生というのは、永遠の国へと歩む巡礼の旅のようなものだと考えます。<br /><br /><br />それでは、何が永遠の命を準備するのか。<br />それは、私たちがどのように神様を愛し、どのように隣人を愛するかにかかっていると思います。<br /><br />この世のものは全て過ぎ去っていきますけれども、愛は消え去りません。<br />愛のみが神様の前で評価され実るものです。<br />だからこそ、<br /><br />「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」（ヨハネ福音書一五章一三節）<br /><br />と言われているわけです。<br />もしこの世の命が全てだったら、友のために命を捨てることに意味は無いでしょう。<br />私たちの目指すものが永遠の命であるからこそ、私たちはあえて愛のために自分の命を犠牲にすることさえ出来るのですね。<br /><br /><br />このことを考えるのに復活ということが大切になるのですが、<br />復活とは永遠の命に新たに造られることと言えば良いかもしれません。<br />それは神様の新しい創造のわざであって、私たちはその命へと生まれるんだということですね。<br />その意味で、私たちキリスト者はとてつもないことを信じているんです。<br /><br /><br />私たちは永遠の命をいただくためにこの世に生きています。<br />私たちがこの世で生きて為していくことは、愛によって、愛を込めて行うならば、<br />たとえどんなに惨めで、小さく、みすぼらしいことであっても、神様の前では、神様が造ってくださる永遠の建物のための立派な「建築素材」のようなものなんです。<br />そう信じるからこそ、私たちは、たとえ自分のしたことが大したことが無くてもがっかりしなくていいんですね、<br />一人の人がこの世の人生で出来ることなんてたかが知れているんですから。<br /><br /><br />時には、私たちの善意を踏みにじるような挫折を経験したり、<br />せっかく努力したことが一瞬で水の泡になってしまうことさえあります。<br />それでも、永遠の命を信じるということは、この世界でのどんな挫折にもがっかりしないということなんですね。<br />私たちのすることが決定的なものではなく、神様が為して下さるのだということですから。<br /><br /><br />一つひとつの私たちの働きや行いは、そこに愛を込めて行う限り、神様の創造のわざに参加させていただくことです。<br />ですから、私たちの働きの一瞬一瞬は、いわば永遠の価値を持っているんです。<br />たとえ大した事が出来なくても、愛を込めて一生懸命取り組んでいくことは、私たちの信仰にとって大切なことなんですね。<br /><br /><br />吉崎　でも、有限な私たち人間に、どうやったら永遠の命が信じられるんでしょうか？<br /><br />　<br />百瀬　私たちは誰もが、自分の人生が無意味であって欲しくないと思うものです。<br />ここに自分がいることに、何か意味があることを望んでいますし、望まずにはいられないんですね。<br /><br /><br />ただ、永遠の命を考える時に、今のこの人生がずっと続くと考えると、「もう止めてくれ」と思うかもしれませんね。<br />けれども、永遠の命とはそういうことを言っているのではないんです。<br /><br /><br />永遠の命のことを想像するには、愛の体験を想ってみたら良いと思います。<br />本当に自分のことを受け止めてもらって、自分の存在を喜んでもらった。<br />その時感じた喜びというのは、いわば「永遠のひとしずく」なんです。<br />神様に受け入れられ喜んでいただくという事が「永遠」なんです。<br /><br /><br />私たちの人生の中には、そんな風に喜びに燃え上がるような体験は少ないかもしれません。<br />けれども、自分を理解してくれた人、自分のために尽くしてくれた人、自分のために犠牲さえ捧げてくれた人。<br />そういう人との出会いは、どの人もどこかで経験しているのではないでしょうか。<br /><br /><br />その事を静かに考える時、私たちの人生の所々で、神様が永遠のしずくを与えてくださっていると思うんです。<br />それは本当に小さなものかもしれないけれど、小さな希望のしずくをいただいて、それに向かって歩むということが信仰じゃないかと思うんです。<br /><br /><br />私たちの人生の歩みでは、神様を見ることは出来ないし、永遠の命が何であるかはっきりとは分からないでしょう。<br />けれども、夜明けに山の端に向かって歩むように、明るさを感じることは出来るんです。<br />そういう希望に向かって歩むことが出来たらいいと願っています。<br />（文責:月刊誌編集部）<br /><br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/catho/index.html" target="_blank">神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</a>』（08年6月9日放送）
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<title>魂のゆくえ 今、みことばに聴いて（6月10日放送）</title>
<description>第10回 「たった一つの答えー『神の見捨て』としての死」石居私もいろいろな形でご相談を受ける事がありますが、一番どうにも答えようが無いというのは「神様の事が分からない」という場合です。つまり、神様が憐れみと愛を持っていてくださるというのは聖書から知っているんだけれど、自分の状況の中では分からないということです。本当に「神様が分からない」という問いの中にある方は、教会にさえ行く事が出来なくなってしまうんです。つまり、「そんな自分は教会にふさわしくない」と思ってらっしゃるんですね...</description>
<dc:subject>魂のゆくえ 今、みことばに聴いて</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-09T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">第10回　「たった一つの答えー『神の見捨て』としての死」</span></strong><br /><br /><br />石居<br />私もいろいろな形でご相談を受ける事がありますが、一番どうにも答えようが無いというのは「神様の事が分からない」という場合です。<br />つまり、神様が憐れみと愛を持っていてくださるというのは聖書から知っているんだけれど、自分の状況の中では分からないということです。<br /><br /><br />本当に「神様が分からない」という問いの中にある方は、教会にさえ行く事が出来なくなってしまうんです。<br />つまり、「そんな自分は教会にふさわしくない」と思ってらっしゃるんですね。そしてそういう問いはなかなかは答えがすぐには見えないんです。<br /><br /><a name="more"></a>聖書の中で、本当に先が見えない中で悪戦苦闘している人物として有名なのはヨブです。<br /><br /><br /><blockquote>「神よ　わたしはあなたにむかって叫んでいるのに　あなたはお答えにならない。御前に立っているのに　あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり　御手の力をもってわたしに怒りを表される。わたしを吹き上げ、風に乗せ　風のうねりの中でほんろうなさる。わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ　すべて命あるものがやがて集められる家へ　連れ戻そうとなさっているのだ。」（ヨブ三十章二十～二三）</blockquote><br /><br /><br />この時ヨブは、孤独の中にあって神様を呼んで答えを求めています。<br />けれど、神様は沈黙を守るんです。<br /><br /><br />これはヨブにとって死んでいるに等しい状況ですね。私たちは、しばしば人生の中でそうした状況の中に置かれます。<br />その時の私たちは、風のうなりの中で翻弄されているように、自分の足をどこに置いていいのか分からないような状況です。<br /><br /><br />こうした私たちの叫びに対して、一体神様はお答え下さるのか。<br />ヨブは求めて求めて、最後に神様が現れるんですよ。<br />でも、神様はヨブの嘆きにお答えになったんだろうかと思うと、どうもはっきりしないんです。<br />「わたしにもの申すとは何事か、黙れ！」という感じですし。<br /><br /><br />つまり、私たちが求めるのと同じ答えが帰って来るかというと、そうじゃないんですね。<br />「納得いくように説明して欲しい！」という思いが私たちにはありますが、<br />私たちが納得するような答えを、神様はなさらないかもしれないんです。<br />そうじゃなくて、その只中で、<br />「わたしとお前はどういう関係か」<br />ということを改めて知らされてくるのかも知れません。<br />その事の中で、私たちは、どんな状況にあっても、より大きな祝福を受けるということなんだろうと思います。<br /><br /><br />吉崎　たとえ今、見えなくても、ですね。<br /><br /><br />石　ええ。でも「今、見えない」ということがやっかいなんです。<br />今、この自分にどうしても答えが欲しい。<br />でもその答えが見えないから、私たちは苦しみの中にあるんです。<br />では、どういう答えがあるんだろうか。<br /><br /><br />ヨブ記では神様からのストレートな答えは無いということでしたが、たった一つ神様が下さった答えがあります。<br />それはイエス・キリストの十字架です。<br />イエス・キリストの死です。<br /><br /><br /><blockquote>「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」（マルコ一五章三三、三四節）</blockquote><br /><br /><br />イエス様がこの叫びを叫ばれたという事が、実は神様が私たちに与えて下さったたった一つの私たちの叫びに対する答えであると思います。<br />神様ご自身が私たちと同じ所に居てくださる。<br />私たちが叫ぶ、その叫びのただ中に神様もまた居てくださる。<br />イエス様は「神の見捨て」。<br />見捨てられるという中に居てくださる。<br /><br /><br />もしイエス様がそこにおられるとするならば、私たちがそういう状況にあった時に、そこは神様がおられない場所ではなくて、イエス様が、神様がおられる場所があるということです。<br /><br /><br />イエス様の死は勇敢な殉教ではないんです。<br />「大事な使命を背負って私が十字架に架かるのだ」と言われたのではなく、<br /><br /><br />「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」<br /><br /><br />という深い嘆き、御子キリストが父なる神に捨てられてしまったという不条理さと暗闇を、イエス様ご自身が味わっておられる。<br />それならば、私たちは自分自身の深い絶望の内に、イエス様を見いだす事が許されるはずです。<br />そこに、私たちはまた新たに生かされていく力を与えられるのだと思います。<br /><br /><br />私たちが途方に暮れ、あるいは虐げられる中でさえも、失望せず見捨てられないのはどうしてでしょうか。<br />それは、イエス様が私たちの所にいてくださるからです。<br />それ程までにイエス様が私の所に来てくださっている。イエス様の方が、この私の所に来てくださっている。<br />それがキリストの信仰です。その信仰に生かされる者でありたいと思います。<br /><br /><br />（文責:月刊誌編集部）<br /><br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/program/soul2.html" target="_blank">魂のゆくえ　今、みことばに聴いて</a>』（08年6月10日）
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<dc:date>2008-06-09T00:00:00+09:00</dc:date>
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<title>全地よ主をほめたたえよ（2008年6月8日放送）</title>
<description>「主の憐れみを求めて」日本基督教団 鎌倉雪ノ下教会東野尚志牧師一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」...</description>
<dc:subject>全地よ 主をほめたたえよ</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-06T09:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">「主の憐れみを求めて」</span></strong><br /><br />日本基督教団　鎌倉雪ノ下教会<br />東野尚志牧師<br /><br /><blockquote>一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。（マルコ十章四六～五二節）<br /></blockquote><br /><br />主イエスは今、エリコの町を出て、いよいよエルサレムへと上っていかれようとするのです。十字架に上げられるその場所へ。<br /><br />その道ばたに、一人の男が座っていました。バルティマイという名前の目の不自由な物乞いです。<br /><br />おそらく主イエスのことは行く先々で話題になっていたに違いない。病人を癒し、徴税人や罪人と食事を共にし、世間から虐げられている者たちを深い憐れみをもって顧みて下さる方。不思議な奇蹟の業を行われる預言者。そのナザレのイエスが今、道を通って行こうとされる。<br /><br />それを聞いた途端にバルティマイは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、なりふり構わず、大声で叫んだのです。この救いを求める必死の叫びが、主イエスの足を止めたのです。主イエスは立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と言われた。<br /><br /><a name="more"></a>主イエスが呼んでいると聞くと、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスの元に来た。主イエスは改めてお尋ねになります。「何をしてほしいのか」。バルティマイはすぐさま応えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。<br /><br />バルティマイは目が見えないために、さまざまな惨めな思いを味わって来たに違いないのです。だから「目が見えるようになりたいのです」と応えるのは当然のように思うかもしれません。けれども、目が見えるようになれば全てが解決するということでしょうか。それまで自分を邪魔者扱いしてきた人たちを見返せるということでしょうか。一体バルティマイは何を望んでいるのか。何を見たいと願っているのか。<br /><br />「何をしてほしいのか」主イエスは全く同じ言葉でヤコブとヨハネにもお尋ねになっていました。（マルコ十章三五～四五節）その時二人が願ったのは、主イエスが栄光をお受けになるとき、自分たちがその右と左の座に就くということでした。ヤコブとヨハネが求めたのは力による支配です。逆らう者をねじ伏せ、悪しき者の力に勝る、より大きな力で国を建て、世界を治める。そのような救い主を求めていたのだと思います。<br /><br />一方バルティマイも、主イエスがダビデの子としてお生まれになる救い主と信じて呼び続けたのです。そうやってバルティマイが主に叫び求めたものは何だったのでしょうか。同じ言葉が繰り返されています。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」バルティマイはひたすら、主の憐れみを叫び求めているのです。<br /><br />目が見えなかったバルティマイはそれだけ聞く事に集中したのかもしれません。主イエスについて語られている事、主イエス御自身が語られた言葉を一つ一つ大切に心に刻み、そして確信したのです。ナザレのイエスこそ、この小さく惨めな私をも憐れんで下さる救い主だと。<br /><br />主イエスが言われる神の国とは、力によって支配される王国ではなく、苦しみ呻く者の叫びに耳を傾け、憐れみを注いで下さる神の愛によって支配される国です。イザヤが預言したように、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなって行く灯心を消すことのない」神の憐れみを成し遂げられる救い主がおいでになった。バルティマイはそう信じたからこそ、どんなに叱られてもひるむことなく叫び続けたのです。<br />「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。<br /><br />「先生、目が見えるようになりたいのです」。<br />バルティマイは何よりも、今自分の前に立っておられる救い主イエスのお姿を見たい。そう願ったのではないでしょうか。罪人を憐れみ、罪と死の支配から贖い出して下さる真の救い主、憐れみの主のお姿を仰ぎ見たかった。<br /><br />主イエスは、自分たちの大きな欠けに気づくことなく栄光の座だけを求めた二人の弟子たちに対しては、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。けれどもひたすらに神の憐れみを求めるバルティマイに向かって主は言われる。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」見えない目で憐れみの主を叫び求め、自分の目で主の憐れみを見ることを願ったバルティマイの真実を、主は「あなたの信仰」と呼んで下さるのです。<br /><br />果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どの位真剣に受け止めているでしょうか。自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれほどに神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であるか。そしてどれほど隣人を傷つけつまずかせ、悲しませている存在であるか。そういうことに気づかないままで、憐れみと赦しではなくて栄光を求めてしまう。自分に誇れる所を探し、人より優れた所があれば安心する。人より劣った所があればいじけてしまう。そういう中からひたすら偉くなることを求め、信仰さえも自分を高めていくための手段のように考えてしまう。けれども信仰は、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。私たちの目は、バルティマイ以上に何も見えていないのではないでしょうか。<br /><br />「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この主イエスの言葉と共に肉の目を開かれたバルティマイ、その目でしっかりと主イエスのお姿を仰ぎ見た。神様の憐れみが形をとってこの地上に宿って下さった救い主のお姿を仰ぎ見た。そして「なお道を進まれるイエスに従った。」この出会いの物語はそのように結ばれるのです。<br /><br />この物語の最初と最後に「道」という言葉が出てきます。バルティマイは最初、道端に座っていた。何でもないただの道が、主イエスが通られる道になった。そしてバルティマイにとっては、主イエスに従っていく道となるのです。その道はエルサレム、神の都へと続く道です。主イエスがそこを通られる時、それは十字架への道となった。そして続く十一章からは、まさに受難週の出来事が綴られて行くことになるのです。主イエスがなおも進んでいかれる道、それは十字架の道に他なりません。主イエスの十字架の道行きに従うバルティマイの姿。それこそが、主に従う者の象徴的な姿としてここに記されているのだと思います。<br /><br />受難の物語の直前にこのバルティマイの物語が記されているのは決して偶然ではないでしょう。バルティマイは主によって開いて頂いた目で、主の十字架を見ることになる。主イエスがお受けになる辱めの数々を見ながら、おそらく初めは「こんなことなら見えないままの方が良かった」と思ったかもしれません。<br />けれども神の憐れみを求め続けたバルティマイは気づいたはずです。自分の目が開かれたのは、まさに十字架につけられたメシア、救い主キリストをこの目でしっかりと見るためであった。バルティマイは主イエスによって開いて頂いた目で確かに神の憐れみを見たのです。十字架の姿において完全に現された神の憐れみそのものを見たのです。<br />私たちの罪を贖うために、私たちを罪に支配された惨めな生活から救い出すために、神の独り子が十字架に引き渡され殺される。まことに人の思いを超えた計り知れない神の憐れみの姿を見たのです。<br /><br />「主よ、憐れんでください」。ギリシャ語では「キリエ・エレイソン」。<br />主の憐れみを求めるこの祈りは、そのまま教会の祈りの言葉になりました。<br />主よ、どうかこの私を憐れんでください。主よ、どうか私の愛する者を、私の隣人を憐れんでください。主よ、どうかこの国を憐れんでください。この世界を憐れんでください。<br /><br />私たちの悩みと苦しみ、痛みと悲しみのすべてを、主は十字架の憐れみを通して受け止めていて下さいます。何よりも私たちの罪故の苦しみの惨めさを、その十字架において引き受けて下さる。私たちを罪の支配から解き放って下さる。十字架こそ、神の深い憐れみのまなざしに触れる場所です。<br /><br />私たちもまた霊の目を開かれて、主の十字架を仰ぎ見ることが出来るように。そしてこの十字架のもとから新しい望みの歩みを始めることが出来るように。<br /><br />「主よ、憐れんでください。」<br /><br />この祈りを祈り続けながら、主の後に従って行く者でありたいと願います。
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<title>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？（2008年5月12日放送）</title>
<description>第6回 「親を愛せない」＜質問＞わたしは現在病気がちで、ずっと家にいる生活です。最近は両親としか過ごしていません。その両親を愛せないでいます。家にいていつも顔を合わせる相手なのに、愛せません。いらいらして、すぐに当たってしまって、そういう自分が情けなくて辛いです。こんな私を、神様はどう思ってらっしゃるのかと思います。百瀬 ご両親に対してイライラして乱暴な言葉遣いをしてしまうというのは、こういう状況の方でしたら、当たり前というか、誰でもそうなってしまうのではないでしょうか。そし...</description>
<dc:subject>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-03T15:20:48+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:large;"><strong>第6回　「親を愛せない」</strong></span><br /><br /><br /><blockquote>＜質問＞わたしは現在病気がちで、ずっと家にいる生活です。最近は両親としか過ごしていません。<br />その両親を愛せないでいます。家にいていつも顔を合わせる相手なのに、愛せません。いらいらして、すぐに当たってしまって、そういう自分が情けなくて辛いです。<br />こんな私を、神様はどう思ってらっしゃるのかと思います。<br /></blockquote><br /><br /><br />百瀬　ご両親に対してイライラして乱暴な言葉遣いをしてしまうというのは、こういう状況の方でしたら、当たり前というか、誰でもそうなってしまうのではないでしょうか。<br />そしてそういう自分に自責の念を持ってしまうというのはよく分かります。<br /><br /><br />そのような状態では無理も無いんです。<br />だからまず、「愛を持たなくてはいけない」とか考えるのではなくて、自分が健康になること、健全になることが先ではないかと思います。<br /><br /><br />特に心の病を患っておられるとしたら、早く治ろうなんてあせってはいけませんね。良くなるためには、健全な人との交わりが必要ですし、健全な気晴らしも必要です。<a name="more"></a>ご質問では「こんな私を、神様はどう思ってらっしゃるのかと思います。」とおっしゃっておられます。<br />それなら、主イエスの福音に耳を傾けていただきたいと思います。<br /><br /><br />それは、天のお父様はあなたの痛みを一番良く知ってらっしゃる方なんだということです。<br />今の試練の意味は私たちには分かりませんけれども、それをお受けする事。<br />ありのままの自分、「こんなはずじゃなかった」と思うような自分を、あえて受け止める事。<br />そして神様が自分を造って、ここに存在させて、そして愛していること、そのことを喜んで受け止める事ですね。<br /><br /><br />もし、自分の弱さを知って、その弱さの中で神様の導きを信じて、より一層神様を憧れるようになったら、その経験は素晴らしいと思います。そういう経験こそ、その人を成長させると思います。<br />それこそが幸せなんですよね。それこそが、神様の前で、人生の最大の宝物なんです。<br /><br /><br />愛するっていうこは、感情ではないんです。<br />愛するということを「愛さねばならない」っていう観念で考えてはいけないんです。<br /><br /><br />愛するっていうことは、自分に強いて努力して出来るものではありません。<br />そうではなくて、自分の弱さにも関わらず受け止められるということ、自分のこの醜さにも関わらずどれほど大切にされているかということを知る時に、その神様の働きに安らぎ、感謝して全てを受け止める。そういう時に、私たちが知らない間に、他の人たちへの関わり方が変わってくるんですよね。<br />神様の愛を知った時に、努力でなく、人に対する関わり方が変わってきます。<br /><br /><br />愛はお恵みです。<br />愛は必ず神様からいただくものです。<br />それをいただいたら、その時どんな風に振る舞うかなんて考える必要は無くて、自然に自分の生き方が愛の生き方になってくると思います。<br /><br /><br />吉崎　どうしても、「正しくあろう」という思いを余りにも強く思っているために自分を責めて、「これではいけない」と否定する方向に行ってしまうんですけれど、本当は「このまま」でいいっていうことなんですね。（文責:月刊誌編集部）<br /><br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/catho/index.html" target="_blank">神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</a>』（08年5月12日放送）
]]><![CDATA[
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<item rdf:about="http://febcarchive.seesaa.net/article/97535413.html">
<link>http://febcarchive.seesaa.net/article/97535413.html</link>
<title>主の祈り－イエスと歩む旅－（2008年6月5日放送）</title>
<description>第9回「神の〈み名〉を小さくしない（1）」〈主の祈り〉天にまします我らの父よ願わくは御名をあがめさせたまえ御国を来らせたま御心の天になるごとく地にもなさせたまえ我らの日用の糧を今日も与えたまえ我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなりアーメン「主よ、私たちにも祈りを教えてください。」（ルカ福音書十一章一節）弟子たちがイエスにお願いし、主イエスはそれに答えて「祈るときには、こう言い...</description>
<dc:subject>主の祈り－イエスと歩む旅－</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-06-02T09:00:00+09:00</dc:date>
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<strong><span style="font-size:large;">第9回「神の〈み名〉を小さくしない（1）」</span></strong><br /><br /><blockquote>〈主の祈り〉<br />天にまします我らの父よ<br />願わくは御名をあがめさせたまえ<br />御国を来らせたま<br />御心の天になるごとく地にもなさせたまえ<br />我らの日用の糧を今日も与えたまえ<br />我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ<br />我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ<br />国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり<br />アーメン</blockquote><br /><br />「主よ、私たちにも祈りを教えてください。」（ルカ福音書十一章一節）<br />弟子たちがイエスにお願いし、主イエスはそれに答えて「祈るときには、こう言いなさい」（二節）と主の祈りを教えてくださいました。<br /><br />不思議に思いませんか。イエス様がお教えくださった主の祈りは、まず最初に神様のための祈りから始まるのです。<br />「あなたの御名をあがめさせたまえ。あなたの御国を来らせたまえ。あなたの御心をなさせたまえ。」<br />祈りとは、自分の必要を言葉にして神様に聞いていただくことではないのでしょうか。<br />主イエスは、まず自分のためではなく、神のために祈れと教えてくださっているのです。いったいこれはどういうことなのでしょう。<br /><br /><a name="more"></a>学生時代、次の言葉を読んだことがあります。幾度も心の中で繰り返し続けているうちに、いったいどこで読んだのか、正確な言葉はどうだったのか、わからなくなってしまいました。けれども、私の記憶に残っている言葉、私がいつも自戒の言葉として繰り返している言葉です。<br />「神を忘れ、他者を忘れた自己実現は、人間を化け物にする。」<br /><br />当時、卒業したら何になろうか、どんな仕事に就こうか、自分はいったい何をしたいのだろうか、どうしたら自分の願いを実現できるのだろうか、そのようなことばかりを考え、祈り、願っていた頃でした。<br />けれどもこの言葉は言うのです。自己実現ばかりが心から去らない、その時、神を忘れ、他者を忘れてはいないか。その末にあなたは化け物になろうとしているのではないか。<br /><br />そのとおりだと思います。愛という名に隠された暴力がある。奉仕という名に隠された要求がある。友情の名のもとに隠された計算がある。犠牲的行為にもどこか功名心が隠れている。そして私どもは、祈りという最も大切な事柄においてさえ、化け物になってしまうことがある。祈りにおいてさえ、神を忘れ、他者を忘れてしまうことがある。ただ自己実現ばかりを願ってしまうことがある。<br /><br />主イエスが主の祈りで、まず神のために祈るようにと教えてくださった。もしかするとそこにこそ、私どもが化け物になっていく道から救い出される道があるのではないかと思うのです。<br />キリスト者というのは特別な人間になることではありません。むしろ普通の人間に帰っていくことです。私どもは時に、信仰という名においてさえ特別な人間になろうとし、化け物になってしまうことがあります。主イエスは、私どもが主の祈りを祈ることによって、まことに人間らしく、普通の人間に戻っていく道を与えていてくださるのです。<br /><br />ルカ福音書に、主イエスを胎に宿したマリアがその喜びを歌う「マリアの讃歌」があります。<br />「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」（一章四七節）<br />ここでマリアは「わたしは主をあがめ」と祈るのです。<br /><br />けれどもこのクリスマスの受胎告知の物語を読んでみますと、ずいぶんと不思議なことがわかります。恐らくこのときマリアは十代前半だったと言われます。マリアは、いいなずけであるヨセフと生活を共にする前に妊娠していることがわかります。天使がその知らせを告げにマリアのもとにやって来ます。<br />「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」（二八節）<br /><br />けれどもマリアはその天使の言葉をまったく喜んでいないのです。マリアは戸惑い、考え込み、恐れ、そんなことはあり得ないと、イエスを胎に宿したことを苦しみ、否定しています。当然でしょう。マリアはまだ十代前半の少女です。しかもいいなずけがいる。夢のある生活で胸をいっぱいにしていたことでしょう。けれどもその夢すべてが失われてしまった。しかも、もし妊娠したことが発覚し、訴えられたなら、当時の律法によりますと石打の刑に処せられたのです。けれども天使はマリアの戸惑いにもかかわらず説得します。そして最後にこう言うのです。<br /><br />「神にできないことは何一つない。」（三七節）<br />あなたの小さな思いを超えて、神はあなたに恵みの業を行おうとしておられると言うのです。その言葉を聞いて、マリアはようやく言います。<br />「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」（三八節）<br />そして歌います。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」<br /><br />ギリシャ語の原文を読みますと、この「あがめる」というとこころに「大きくする」という文字が使われています。つまり「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、「御名を大きくしてください」という祈りなのです。自分の中にある不安の声にも逆らって、神の名を大きくする。それが「御名をあがめさせたまえ」という祈りです。<br /><br />私どもが「御名をあがめさせたまえ」と祈るときに、それは、私たちの信仰を強くしてくださいという祈りではありません。信仰心という名の自分の力が強くされることを求める祈りではないのです。そうではなくて、神ご自身が必ず神の名を大きくしてくださる。そのことを信頼する言葉なのです。<br /><br />私たちは御名をあがめさせたまえと祈り続けながら、自分の力を捨てて、神様の力に自分をゆだねる練習をしているのです。私どもは自分の名にこだわることから簡単に抜け出すことができません。自分の夢、自己実現を妨げられてしまうときに、神の名を呼ぶ心さえ失ってしまう。そして自分の心の中は自分の声で一杯になってしまうのです。しかし、だからこそ、自分の心にも逆らって祈りの声を上げるのです。<br /><br />ある時は自信を与える、ある時は不安におびえさせる、ある時は野心に火をつける、ある時は妬みに溺れさせる、様々な声が私どもの中に響いています。けれどもそのような声に逆らいながら、私どもは主イエスの言葉に祈りの言葉を合わせていくのです。<br />「天の父よ、私たちではなくあなたご自身が、あなたの名を大きくしてください。あなたが私たちに、あなたの恵みを実現してください。」<br />そこに、私どもが化け物になることから救い出されて、本当の自分に帰っていく道があります。
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<title>主よ、あなたが歩かれる道ならば―マルコによる福音書―（2008年5月28日放送）</title>
<description>第61回「乏しさに負けない」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」（マルコ福音...</description>
<dc:subject>主よ、あなたが歩かれる道ならば－マルコによる福音書－</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-26T09:00:02+09:00</dc:date>
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<strong><span style="font-size:large;">第61回「乏しさに負けない」</span></strong><br /><br /><blockquote>イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。<br />ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。<br />イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。<br />「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」<br />（マルコ福音書12章41～44節）</blockquote><br /><br /><strong><br />●自分の貧しさを恥じながら生きる●</strong><br /><br />当時のイスラエルの民にとって富を持つということは、神様の恵みの一つのしるしでありました。豊かさとか貧しさが、単にその人の財力ということにとどまらずに、神様の恵みと結びつけてとらえられていたのです。<br /><br />やもめは、人の世話にならなければ生活できないような立場でありました。そういう時代ですから、貧しいということに引け目を感じるような気持ちになったと思います。自分は金持ちのように神様にいっぱいささげることができないということが、負い目になったかもしれません。<br /><br />私たちの多くは、このやもめほどに経済的に困窮した生活をしているわけではないかもしれません。しかし、自身の貧しさということを、いろいろな意味で痛感しながら生きているように思います。<br /><br />私自身も本当にそうです。自分が人間として貧しいな、自分の資質とか性格がなんて貧しいのか、そういうことを感じながら生きてきました。<br /><a name="more"></a>自分を恥じるような気持ちになるということもあるのです。貧しさということを、何か自分の本質に根ざしたところにある性質として感じてきたと思います。<br />自分のやっていることが良い方向に向かっていけばいいなと思いながら生きているのに、様々なことがこぼれ落ちるようにして、その歩みの貧しさが露呈してくる。それが、人間の人生の現実ではないだろうかと思います。<br /><br />聖書の時代に「やもめ」と呼ばれている人たちが、自分の貧しさを恥じながら生きることがあったとしても、そういう自己認識というものは決して特別なことだとは思えないのです。<br />人間というのはいつでも誰でも、自分の貧しさを恥じるという面をもっているなと思います。<br /><br /><strong><br />●貧しい自分をそのままささげるしかない●</strong><br /><br />ここで、たくさんの人々が賽銭箱にお金を入れる中で、イエス様はあえてこの貧しい人に目を留められました。<br /><br />このやもめはレプトン銅貨二枚を賽銭箱に投げ入れたのです。<br />金持ちがたくさんやって来ていっぱいささげていますから、その中でレプトン銅貨二枚入れたって、ささげたうちに入らないでしょう。<br />でもイエス様は、このささげものに目を留められたのであります。<br /><br />イエス様は、この女性の中に起こっていることを見逃されませんでした。<br />「この人は、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」。イエス様がこうおっしゃったのは、やもめがささげたレプトン銅貨二枚は、単なるお金ではないということだと思います。<br /><br />ここでは「命」とか「生活」とか「人生」と訳されても良い言葉が使われています。「この人は自分の命を全部ささげた。」イエス様はそうとらえてくださったのです。<br /><br />このやもめは、貧しさにただうちひしがれて、それを嘆いているのではなくて、その貧しい自分を全部丸ごと、「神様、用いてください」と願っているのです。<br /><br />あるかないかわからない自分であります。でもその自分をそのまま神様にささげるしかない。<br />ここには、自分の乏しさ、自分の現実に負けずに生きている姿を感じるのです。<br /><br />イエス様はその姿に注目なさった。皆が献金している姿をご覧になりながら、この女性のことを取り上げられたのです。<br />なぜなら、まさに信仰とはこういうことだからであります。このやもめが、自分の貧しい人生を全部、「神様、これを生かしてください」と差し出した。信仰とはこういうことだと、イエス様が教えておられるのだと思います。<br /><br />私たちは、素晴らしい賜物を発揮して神様に仕えている人を誉めたり、うらやましく思うことがあるかもしれません。<br />ここに出てくる大勢の金持ちたちはいわばそのように人々からうらやましがられる人たちであります。「あれほどにお金を持っているということは、神様からいっぱい恵みをいただいている人だな。」そう見るわけです。<br /><br />しかしイエス様はここで、たくさんの人の中で一番少ししかささげなかった人に目を留めて、「この人は乏しい中から自分の命そのものをささげてしまった」とおっしゃったのです。<br /><br />私たちは、何かをささげるとして、出し惜しみするほどの何かがあるでしょうか。自分は一体どの賜物を用いて神様に仕えようかなどと選ぶ余地があるでしょうか。<br />むしろ、乏しい自分をそのまま神様にゆだねながら、この身を差し出して、「神様、この私を用いてください。」そう言うのもはばかられるような私どもでありますが、しかしそう願いながら生きることが許されているのです。<br />イエス様がこのやもめを取り上げられたということは、こういう姿をこそ神様が喜んでくださるということではないでしょうか。<br /><br /><br /><strong>●この貧しく罪深い私たちの命の中に●</strong><br /><br />イエス様は間もなく十字架に向かって歩んで行かれます。やがてイエス様はご自分の命を捨ててくださるのです。<br />それは、この貧しい、罪深い私たちの命の中に、イエス様がご自分の命をすべて投げ込んでくださったということです。<br />私たちは、自分はこんなに貧しいと思うかもしれない。でも実は、その小さな生涯に、神様は、イエス様の命をすべて注ぎ込んでくださったのです。<br /><br />そのようにして、この小さな私たち一人ひとりの生涯が愛されている。このことにこそ、我が身の幸いを見出して生きていきたいと思います。<br /><br />「<a href="http://www.febcjp.com/program/way.html" target="_blank">主よ、あなたが歩かれる道ならば―マルコによる福音書</a>」（08年5月28日放送）
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<title>わが神、イエス－ヨハネによる福音書ー（2008年5月24日放送）</title>
<description>第34回「良くなりたいか」その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。（ヨハネ福音書五章一~四節）「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。これは巡礼団が身を清めるために使う沐浴施設でした。ところが、いつの間にか様子が変わりました。浴槽の水が動くのです。「動いた...</description>
<dc:subject>わが神、イエス－ヨハネによる福音書－</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-23T09:00:00+09:00</dc:date>
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<strong><span style="font-size:large;">第34回「良くなりたいか」</span></strong><br /><br /><blockquote>その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。（ヨハネ福音書五章一～四節）</blockquote><br />「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。<br />これは巡礼団が身を清めるために使う沐浴施設でした。ところが、いつの間にか様子が変わりました。<br />浴槽の水が動くのです。「動いたとき、浴槽の中に最初に飛び込めば、どんな病でも治るのだ。」このような言い伝えが起こりました。<br />いつしかベトザタの池は、病める人々が癒しを願う場に変わって行ったのです。<br /><br />ベトザタの池は、異様なところであったと思います。<br />顔色は悪く、極端にやせ衰えている人がうずくまり、足腰の立たない人が横になっている。生きているのか死んでいるのかさえ分からない人がいる。家族に捨てられた人がいたでしょう。自分のほうから家族を捨てた人もいる。健康であった日々は失われ、人間関係はすでに絶たれている。<br />ベトザタの池は、日常生活から遮断され、希望を失い、不自由な体で生きる人々が、毎日毎日行き場のない呻き声を上げているのです。<br /><br />主イエスは、なぜベトザタの池に入られたのでしょう。<br />楽しい祭りの時です。心を暗くするものは見たくありません。<br />一般の人ならば避けて通るのが普通です。<br /><br />ところが主イエスは中へ入って行くのです。<br /><a name="more"></a><blockquote>さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。（五～六節）</blockquote><br />池のほとりに三八年間病む人がいた。歳はいくつであったのでしょう。<br />二十代で病んだとすれば、六十代。人生の大半を病の中で過ごしました。<br />すでに親はいないでしょう。兄弟や親族が心配してくれている人とも思えない。長い間病んで、池のほとりで打ち捨てられるように暮らしているひとりの男。<br /><br />「見知らぬ人が来た。」<br />男は、主イエスのほうを見たのかもしれません。彼は横たわっています。主イエスはかがんだでしょう。そして主は、男の目を見て問いました。<br /><br />「良くなりたいか。」<br /><br />長い間病んでいる人に向かって、「良くなりたいか」と問うのは、あまりに愚問のように聞こえます。ところが、必ずしもそうではない。<br />確かに、男は良くなりたかったでしょう。だからベトザタの池にいるのです。<br />ところが、三八年間「良くなりたい」という気持ちを持続させるのは難しいことです。<br /><br />若い時には必死の思いがあった。這いつくばってでも、池の中に一番に飛び込みたかった。努力をしたでしょう。けれども、水の中に一番には飛び込めなかった。要は、治らなかったのです。<br />気がついてみれば、あまりにも多くの月日が過ぎていた。「治りたい」「生きていく」まるで退化するように、心の中から失われていました。<br />そして無気力な現実の中にうずくまったとき、そのほうが楽だったのです。<br />願ってもかなわないことを願うよりも、絶望の中にうずくまり、治らない自分を憐れむほうが楽だったのです。<br /><br />「良くなりたいか」主イエスが語ったひと言。<br />私はこの言葉に、聖霊の響きを感じるのです。<br /><br />「『光あれ』こうして、光があった。」闇の中から光を創り出す神。<br />「モーセよ、モーセよ。」混沌の中から、人を新しい使命に呼び出す神。<br />「ラザロよ、出て来なさい。」死人に命を与える、ひとり子なる神。<br />同じ御言葉の響きを感じるのです。<br /><br />「良くなりたいか」ただ問うているのではありません。主イエスは、男の魂を言葉でつかんで揺り動かしているのです。<br />「あなたはそれで良いのか。このままで終わるのか。」<br /><br />病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(七節)<br /><br />だらしのない答えです。無気力な言葉です。主イエスの心はカーッと燃え上がったでしょう。恐ろしいほど目を見開いた。そして言うのです。<br /><br />「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。(八～九節)<br /><br /><br />私は十代の頃、高校を中退して家の中に引き籠っていた時期がありました。<br />「いい若い者が何をしているのか。」力のある人に限ってそういう見方をするものです。本人は転げ回るように辛いのです。<br />浅い眠りの中で、毎日毎日鮮明な夢を見る。そうすると、二四時間、意識が途絶えないような気持になります。精神的に疲れて、眠ることさえ奪われて行く。<br />本人は辛いのです。そして妙なことに、辛さの中に安住するのです。他人と関わりを持ちません。心の世界が肥大して、心の世界の主になって安住するのです。<br /><br />「良くなりたいか。」主イエスが男に向かって言葉をかけました。救いは、外から来るのです。<br /><br />この放送を聞いているあなたに、うずくまる現実があるかもしれません。<br />あるいは神様に対して、願うことさえ嫌に思えるほど、虚しい心があるかもしれません。<br />主イエスは、そういう私たちに訪れてくださる。<br />健康な人は寄り付かないベトザタの池にやって来て、三八年間寝ている男を訪ねました。だれも関心など寄せない人なのです。そしてこの主イエスが、あなたに訪れ、あなたに向かって問うのです。<br /><br />「良くなりたいか。」<br /><br /><br />主イエスは、御言葉によって魂を揺さぶり、死から命の中へ、ひとりの男を引っぱり出したのです。<br /><br />聖書が示す「生きる」こと、これは、単に人生の道を歩んで行くことではありません。神様に愛され、神様を愛す。神様に問われ、神様に応えていく。これが聖書の示す、生きていくことです。主イエスは病を癒すと共に、男を神様との交わりの中に引き起こしたのです。<br /><br />「床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。(八～九節)<br /><br />この床は、三八年間男を縛っていたものです。これを担ぐとは、これまでの辛い人生を克服したことを意味します。<br />そして大事な点。床は捨てないのです。担ぐのです。<br />「病んだこれまでは空しい。捨ててしまえ。」そうではありません。<br />辛いこれまでを生きた私が、辛いこれまでを克服して、今日から新しく歩み始める。床に縛られていた私が、床を我が手に担ぎあげて歩むのです。<br />これが、主イエスによって与えられる救いです。
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<title>主よ、あなたが歩かれる道ならば―マルコによる福音書（2008年5月21日放送）</title>
<description>第60回 このような者たちなのにイエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」（マルコ福音書12章38~40節）自分が尊敬され、注目され、大事にされることを期待し求める、あるいは、そうされると嬉しいという気持ちを持つことは、人間ならばあり得ること...</description>
<dc:subject>主よ、あなたが歩かれる道ならば－マルコによる福音書－</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-19T10:42:00+09:00</dc:date>
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<strong><span style="font-size:large;">第60回　このような者たちなのに</span></strong><br /><br />イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」（マルコ福音書12章38～40節）<br /><br />自分が尊敬され、注目され、大事にされることを期待し求める、あるいは、そうされると嬉しいという気持ちを持つことは、人間ならばあり得ることかもしれません。<br /><br />律法学者たちが自分からそういう評価を求めたのか、勝手に人が評価するのだけれども誉められて悪い気はしない、そういうことだったのかはわかりません。しかしイエス様はそのことをとても厳しく見咎めていらっしゃいます。「このような者たちは人一倍厳しい裁きを受ける。」そうおっしゃったのです。<br /><br />律法学者は、ただ見せかけだけで生きていたというよりは、誰よりも律法に従う努力をしたのであります。しかしイエス様はその律法学者を咎められたのですね。イエス様は何をそれほど厳しくご指摘なさったんでしょうか。<br /><a name="more"></a>律法学者たちは人々から尊敬を集め、一目置かれているのです。実はそのこと自体の中に、ある種の落とし穴があるとイエス様は見ていらっしゃるのではないかなと思いました。しかもそれはとても重大な落とし穴であります。つまり彼らが尊敬を集めているということ自体が、大きな裁きの対象であるということなんですね。<br /><br />牧師に対しても、「あの先生は素晴らしい」と言う人があります。その牧師の言葉や振る舞い、生き方が賞賛の対象になっている。人の心を神様へと向けさせようとしていたはずなのに、気がつくと自分のほうを向いているということが起こる。それは、人々の目を神様から離す手引きをしてしまったことになりはしないか。人々の目が神様からそれてしまい、人間の力、業、功績を見るということになってしまう。それはまさに罪の力ではないでしょうか。<br /><br />ここにイエス様の厳しいご指摘があるなと思いました。律法学者がどれほどに正しい道を志していても、そこに深く神様を悲しませていたということがあるのではないかと思います。<br /><br />私たちも律法学者と同じように厳しい裁きの対象なのだと思わずにはおれません。<br /><br />私たちの生涯は、人の心を神様に向かわせるような生き方をしているだろうか。あるいは自分の目がまっすぐに神様に向けられるような暮らしをしているだろうか。私たちは神様から命を、否、すべてを与えられて生きています。でもそれがいつの間にか当たり前になっていって、正しい道を志して生きていても、その姿を誉められたりしているうちに、あたかも自分の業ゆえに誉められている、そういう気持ちが大きくなって、神様への感謝を忘れてしまう。自分の力で生きているのだという思いが心の底で私たちをとらえるのです。<br /><br />また、私たちは神様に祈りますが、祈るということは神様のまなざしの中で事をなし、生きていくということですね。祈りながら生きるということは、神様のまなざしの中に置かれている自分、そのことに常に心を留めながら生きていくということなんです。しかし、神様のまなざしが私たちの背後にあることを忘れてしまうのです。<br /><br />イエス様は「このような者たちは人一倍厳しい裁きを受ける」とおっしゃいました。これは律法学者たちだけのことではなく、この私たち自身も含まれることなのです。私たちの罪の深さをイエス様はご覧になっているのです。<br /><br />しかし忘れてならないことは、イエス様はこのことをお語りになりながら、既に十字架の道を見据えておられるということです。イエス様は、ご自分が十字架にかかるということを見据えながら、私たちの罪をご覧になって、「このような者たちは誰よりも厳しい裁きを受けなければならない」とおっしゃったのです。<br /><br />それは、「この人たちが、裁きを受けねばならない罪に陥っている。それゆえに、わたしが、十字架の道を歩まねばならない。」そのようにイエス様が見定めておられるということではないでしょうか。<br /><br />人一倍厳しい裁きを受ける裁きの座というものがあるとするならば、イエス様はその裁きの座をご自分の命で独り占めしてくださったのです。十字架において。もうそこに誰も立つことがないように、裁きの前に、ご自分の身を置いてくださったのです。あなた方がその人一倍厳しい裁きにさらされることがないようにと。主はそれを成してくださったのです。<br /><br />「<a href="http://www.febcjp.com/program/way.html" target="_blank">主よ、あなたが歩かれる道ならば―マルコによる福音書</a>」（2008年5月21日放送）
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<link>http://febcarchive.seesaa.net/article/95950837.html</link>
<title>幸いを告げるうた―詩篇―（2008年5月16日放送）</title>
<description>詩篇第38篇 小さな育ちゆく信仰詩篇38篇は、「嘆きの歌」と言われる詩篇の中でも、あまりに光の見えない、灰色に塗られてしまったような、少しも信仰なんて自分の内に意味を持ってこないと思われるような絶望の中における詩人の叫びであります。多くの学者たちに言わせますと、今日で言う末期がんのような病か、当時は「らい病」と言われた重い皮膚病にかかった人の歌ではないかと言われるわけであります。そういう時、神様に「助けてくれ」と祈るべきですけれども、しかし人間というのはそういう絶望の中にあり...</description>
<dc:subject>幸いを告げるうた―詩篇―</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-16T09:00:00+09:00</dc:date>
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<strong>詩篇第38篇　小さな育ちゆく信仰</strong><br /><br />詩篇38篇は、「嘆きの歌」と言われる詩篇の中でも、あまりに光の見えない、灰色に塗られてしまったような、少しも信仰なんて自分の内に意味を持ってこないと思われるような絶望の中における詩人の叫びであります。多くの学者たちに言わせますと、今日で言う末期がんのような病か、当時は「らい病」と言われた重い皮膚病にかかった人の歌ではないかと言われるわけであります。<br /><br />そういう時、神様に「助けてくれ」と祈るべきですけれども、しかし人間というのはそういう絶望の中にありますと、私の上に神の怒りが臨んでいるのではないかというような恐れに囲まれるわけです。恐らくこの詩人は、罪に対する神の怒りを感じたのでしょう。<br /><br />ですからこの詩篇は22節までありますけれども、ほとんど嘆きとつぶやきと訴えです。信仰なんてほんのわずか、お線香の光くらいにしか見えないような状況です。<br /><a name="more"></a>主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、<br />激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。<br />あなたの矢がわたしに突き刺さり、<br />あなたの手がわたしの上にくだりました。<br />あなたの怒りによって、<br />わたしの肉には全きところなく、<br />わたしの罪によって、<br />わたしの骨には健やかなところはありません。<br />わたしの不義はわたしの頭を越え、<br />重荷のように重くて負うことができません。<br />わたしの愚かによって、<br />わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。<br />わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、<br />ひねもす悲しんで歩くのです。<br />わたしの腰はことごとく焼け、<br />わたしの肉には全きところがありません。<br />わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、<br />わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。<br />（1～8節）<br /><br />この１～８節を見ますと、「犯した罪」というよりも、「自分という存在」はなんという罪深い者であろう。本当に自分の心の底の底まで知ったら、私なんか愛してくれる人は世界にいるだろうか。この詩人はそういう罪深さに気付き、この自分をどうして神が愛することなんてできようか、神の怒りのもとに自分は立っているんだと自覚したようであります。そしてその罪深さに対する神の怒りがどんなに深刻なものであるかということを嘆いているわけであります。<br /><br /><br />さらに、親しい友人、親族さえも自分から離れて、自分を疎ましく眺めているという状況があります。<br /><br />わが友、わがともがらは、<br />わたしの災を見て離れて立ち、<br />わが親族もまた遠く離れて立っています。<br />わたしのいのちを求める者はわなを設け、<br />わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、<br />ひねもす欺くことをはかるのです。<br />（11～12節）<br /><br />本当に辛かっただろうと思うんですね。まったく絶望の人間の世界。人と人との間柄も何の役にも立たない。叫んでみてもその叫びが返ってくるような、そういう絶望の中でこの歌は歌われ抜いたわけです。<br /><br /><br />しかしその中に、本当にかすかに残っている主への信仰が見られるのです。わずかに残るその火を、神様は燃え立たせてくださって、再び自分を神に向けてくださるのです。<br /><br />主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、<br />わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。<br />（9節）<br /><br />私は心臓を病みましたとき、「ああ、自分は心臓が悪いんだ」という思いが、朝起きた途端にワーッと広がってくるんですね。それを重ねていきますと、希望は持ちにくいものだと思うんです。朝が来ても「今日も治らない。この病が自分にはあるんだ」と思うんです。<br /><br />しかしそういう中でこの詩人は、「その思いを、あなたはすべてご存知でおいでになる。私の嘆きを誰も理解しなくても、このお方だけは知っておいでになる」と言ったのです。現実の中で、神様というお方が私を知っていてくださるという灯火がここにございます。かすかな、線香の火のような信仰。「神は私を知っておいでになる。」それは本当にかすかでも、打ち消すべきものではないのです。<br /><br />そしてそのかすかな火が神様への信仰の光となって灯ってまいります。<br /><br />しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。<br />わが神、主よ、<br />あなたこそわたしに答えられるのです。<br />（15節）<br /><br />この「しかし」という言葉は「ただひたすらに」という意味です。「あなたを待ち望みます」という言葉は、ヘブル語では完了形で、非常に強い言葉なんです。神に対してこの詩人は決断をしたのです。<br /><br /><br />けれどもその後、詩人の心は揺らぐのです。<br /><br />わたしは倒れるばかりになり、<br />わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。<br />わたしは、みずから不義を言いあらわし、<br />わが罪のために悲しみます。<br />ゆえなく、わたしに敵する者は強く、<br />偽ってわたしを憎む者は多いのです。<br />悪をもって善に報いる者は、<br />わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。<br />主よ、わたしを捨てないでください。<br />わが神よ、わたしに遠ざからないでください。<br />（17～21節）<br /><br />しかし、主の前にしたその決断を、詩人よりも神様ご自身がお受けくださったという事実があったことを見逃してはなりません。私たちは「信じた」と思う。でもその舌の根が渇かないうちから、上がったり下がったりするような弱い者です。けれども私たちがひとたび神に向かって「主よ、あなた以外にご信頼申し上げるものはありません」と自らを差し出すときに、このお方はそれを受け取っていてくださるのです。<br /><br />そして遂に22節で「主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください」と、神に向かって叫ぶことができるようになっていった、この詩人の祈る姿があるのです。私たちは苦悩や問題を抱えて主の前に出て行くときに初めて、私たちの信仰が突き抜けて、神様の前に期待と祈りとを投げかけることができると思うんですね。<br /><br />しかし、ここまでしかこの詩人は歌っていないのです。これは旧約聖書の限界と言ったらいいでしょう。<br /><br /><br />イエス・キリストというお方は、弱い私たちと同じ人間になってくださったのであります。人間はどんなに信仰を持ったところで、祈ったところで、いろいろなことの中に信仰なんてかき消されてしまうような弱い者です。神が人間になってこの世界においでになったということは、その弱い人間の姿になられたのです。<br /><br />私はこの詩人の姿を、イエス様のご生涯の中に見るのです。<br /><br />イエス様は私たちの罪を負われて、十字架の上で父から捨てられたのです。「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや」と言ったのです。ところが、最も親しい者である父なる神が、自分に顔さえも見せない、その孤独の中で、「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」と、ご自分を捨てられた父に向かって最後まで信仰を持ち続けました。<br /><br />一本の命の綱が、人間から神に向かって、あのカルバリの十字架から天に向かって投げかけられましたように、この一本の御子の真実が父のもとに届いていった。その信仰のゆえに、私たちは罪を一切解決されるのです。<br /><br />まさにこの詩篇の詩人の本当の解決は、あの十字架の上において「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」とおっしゃったイエス様の真実によって完成されたと思うのです。<br /><br />「<a href="http://www.febcjp.com/program/uta.html" target="_blank">幸いを告げるうた―詩篇―</a>」（08年5月16日放送）
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<title>全地よ 主をほめたたえよ（2008年5月18日放送）</title>
<description>「後ろのものを忘れて」日本基督教団 藤沢北教会藤盛勇紀師「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る事です。だから、わたしたちの...</description>
<dc:subject>全地よ 主をほめたたえよ</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-16T00:00:00+09:00</dc:date>
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<span style="font-size:large;"><strong>「後ろのものを忘れて」</strong></span><br /><br />日本基督教団 藤沢北教会<br />藤盛勇紀師<br /><br /><blockquote>「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る事です。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」（フィリピ三章一二～一六節）</blockquote><br /><br /><br />前向きな生き方<br /><br />パウロの語る信仰のスタイルというのは、明らかに一つの具体的な姿勢を示しています。それは、前へ向かうスタイルです。<br />前向きに生きる、ということが一つの理想的な生き方のようにも言われます。それは、明確に選んだ一方向に向かおうとする、意味の充満した生き方です。<br /><br />信仰によって生きる生き方にも、明確な姿勢があります。それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、そして「ひたすら走る事」です。そしてこれがなすべきただ一つの事だと言うのですから、これは信仰生活の基本形だと言っていいと思います。<br /><br />でもどうして、ひたすら前へなのでしょうか。それは、目標があることによって初めて、どちらが前で、どの方向へ向けばいいのかが分かるからです。<a name="more"></a>今を生きるために<br /><br />私たちの目標とは何でしょうか。パウロはキリストによって賞を得るのだと言っています。<br />目指すのはキリストなんです。言い換えれば、キリストの許で私たちの競技は終わるということです。<br />安心して、競技を終える事が出来る。そしてそこには賞がある。つまり、終わりこそが大事だということです。<br /><br />私たちは充実した人生を生きたいと願って、今を大切にしようとします。しかし、その「今」の生き方に意味を与えるのは「終わり」なのです。<br />私たちの人生は死をもって終わります。その意味で、私たちの人生は死を目指して走る競技だとも言えます。とすると、私たちの人生は死がゴールなのでしょうか。<br /><br /><br />死ぬまで主に捕らえられ<br /><br />パウロは、目標を捕らえようと努めていると言っています。どうしてこんなに必死になって走れるのか。それは、今、自分がキリスト・イエスに捕らえられているから、とパウロは言うんです。<br /><br />このパウロを捕らえ、そして私たちをも捕らえていてくださるキリストは、一人の人生を確かに意味あるものにして、そして死をも突き抜けて走らせる力を持っておられる、生きておられる御方です。<br />私たちが神と共に生きるために、神の命に生きるために、主イエス・キリストは、私たちの死ぬべき死を死んでくださり、その死を打ち破って甦ってくださいました。そして、今生きて私たちを捕らえることの出来る御方です。<br /><br />ですから、死に向かう人生であっても、あるいはあらゆるものを失い、何もかも出来なくなっても、生きる意味は薄まりません。死ぬまで、主に捕らえられ、主に支えられて、慰められて、叱責されて、励まされながら、生きていいんです。<br /><br />私たちが「前」という時に、どっちを向いている事なのか、何を見ていることなのか。<br />それは私たちのために呪われて十字架につけられた、主イエスです。この御方を見ているという事が、私たちの「前向き」なんです。<br />ですから、前向きというのは単なる積極性ではありません。今、天におられてやがて来られるキリストに向かって目を上げて生きる事です。その姿勢がかっちりと決まっているということが「前向き」ということなんです。<br /><br /><br />キリストの許でこそ<br /><br />私たちはこの世のどこかに故郷を持っています。「懐かしい時代」も持っています。しかし、私たちの帰るべき所はそこではありません。<br />私たちの行くべき場所は後ろには無いんです。だから、後ろのものは忘れていいんです。<br /><br />ところが、私たちは後ろのものを忘れられません。忘れられないどころか、後ろのものにいつも捕らえられてしまいます。<br />麗しい過去、楽しかった思い出、あるいは逆に、思い起こしたくもない過去や失敗ということでもあります。<br />帰っていく事など出来もしない過去にしがみついたり捕らえられて、そこから抜け出せない。それで、私たちはなかなか前向きになれないのです。でもどうしたらいいのでしょうか。<br /><br /><blockquote>「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」（ヘブライ人への手紙一二章一、二）</blockquote><br /><br />絡みつくものをかなぐり捨てて、走って行こう。そしてそれは、「イエスを見つめながら」だと言うんです。<br />十字架に付いてくださり、そして復活して神の右に座しておられるイエス・キリストを見つめながら、私は走れると言うのです。<br />十字架のイエスを見つめる時、過去のあの罪、あの失敗、あの恥、あの取り返しの付かない間違いに、もう捕まってしまう事が無いのです。私たちはキリストの許でこそ、重荷を降ろす事が出来ます。そうやって、私たちは前へ向かうのです。<br /><br />だから、キリストを見つめる時、私たちの行くべき場所はこの世のどこかでは無いということが分かってきます。麗しい過去があっても、それは忘れていいんだと言う事が分かってきます。<br /><br /><br />本当のふるさとを目指して<br /><br />私たちにとって本当に懐かしく慕わしい場所、本当に帰りたい場所は、この世のどこかにあってはいけません。それは天にあるんです。<br />その希望が、いろいろな損得勘定をして生きている私たちを解放してくれます。自由になって、仕えて生きるということが出来るのです。<br /><br />キリストを見つめて生きる時に、仕えて生きるという事が断然意味を持ってきます。死に向かって生きるという事が意味に満ちてきます。<br /><br />若い時、目一杯働けるときが人生のピークではないのです。人生の最期こそが、希望の時でありクライマックスなのです。<br />確かに約束された賞が近くにあって、故郷がすぐそこだからです。キリストに捕らえられている人生とはそういうものではないでしょうか。本当の意味で、それこそが前向きの人生なのではないでしょうか。<br /><br />私たちも今を大切に生きたいと願い、人生を充実させたいと願います。しかしそれは、「私の生き甲斐はどこにあるのか」とか「人生とは何なのか」とか、この地上を這いつくばって生きる姿勢とは違うのです。<br />後ろのものを忘れて、安心して前のものに全部を向けるのです。キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞を目指して、私たちは上を見続けるのです。<br /><br />キリストが今おられる上、そこから来てくださる天。私たちの本国、賞が用意されている天。キリストという前を見て、私たちは目を上げて進んでよいのです。それが、私たちの命の道ですし、私たちの今の力ですし、今を走り続ける私たちの希望です。<br /><br />（文責:月刊誌編集部）<br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/program/susv.html" target="_blank">全地よ 主をほめたたえよ</a>』（2008年5月18日放送）
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<title>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？（2008年5月5日放送）</title>
<description>第５回 病気は何かの罰？〈質問〉うつ病になり、仕事も出来なくなりました。毎週欠かさず教会に行って、毎日欠かさずお祈りもしているのに、なぜこんなことばかりが起こるのでしょう。思い出せる限りの罪を悔い改めました。それでも一向に病気は治りません。もうこれ以上何をしたらいいのか分かりません。これは何かの罰ですか？百瀬 まず最初に、病気と宗教とを切り離して考えることが必要だと思います。病気が罪の結果だとか罰だという考え方を捨てなければいけません。 人間ですから出来る事と出来ない事はあり...</description>
<dc:subject>神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-08T14:07:05+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">第５回　病気は何かの罰？</span></strong><br /><br /><blockquote>〈質問〉うつ病になり、仕事も出来なくなりました。毎週欠かさず教会に行って、毎日欠かさずお祈りもしているのに、なぜこんなことばかりが起こるのでしょう。思い出せる限りの罪を悔い改めました。それでも一向に病気は治りません。もうこれ以上何をしたらいいのか分かりません。これは何かの罰ですか？</blockquote><br /><br />百瀬　まず最初に、病気と宗教とを切り離して考えることが必要だと思います。病気が罪の結果だとか罰だという考え方を捨てなければいけません。<br /><br /><br />　人間ですから出来る事と出来ない事はあります。ですから、そういう時には、自分に出来る事を考えて何とか対処するということが大切だと思います。<br />そして、そこで下手に宗教を持ってこないことが大切です。こめかみに青筋を立てながら神様に祈っても、そのお祈りは異常な状態でやっているのですから、ますます自分を疲れさせてしまうかもしれません。<br /><br /><br />　トマス・アクィナスという学者がこんなことを言っています。<br />信仰の危機の時には、「よく食べなさい」「よく眠りなさい」「お風呂に入りなさい」「友を訪ねなさい」と。<br />そして最後の五番目に大切なこととして、「神の前に泣きなさい」と言うんです。<br />偉そうな祈りをしなくていいんです。自分の惨めさをさらけ出して泣くだけ泣くんです。悲しい事、苦しい事、全部打ち明けて泣きなさいと言っています。<a name="more"></a>　鬱というのは自分ではどうしようもないようなものです。だから、そこで無理に「神様にお願いする！」なんてしないで、自分が出来る事を出来る限りやること。それから、「泣きなさい」と。「治してください」と言う前に「泣きなさい」なんです。<br />自分を責めないでいいから、まず休むこと。軽い運動をして、お風呂にでも入って、くつろぐこと。<br />自分の弱さや欠点、そんなことを全部忘れて、ありのままをまず受け入れることが大切じゃないかと思います。<br /><br /><br />　病と宗教とを混同してはいけないということを申し上げましたが、とりわけ鬱の方には、罪とか罰を考える傾向があります。けれども、神様は罰をお与えになるようなことは絶対にありません。そして、病気は罪とは関係がありません。<br /><br /><br />　確かに、聖書の中には人間の罪を糾弾する神様のお姿が描かれています。そして心の病の方はそういうところにばかり注目してしまうようです。<br />確かにイスラエルの民は歴史の中で非常に苦しい経験をしてきました。そして彼らはその事を神の罰だと理解しました。せっかく神様が特別な恵みを与えてくださったのにそれを忘れて、神様の計らいを無にしてしまったから、だからこんな不幸が降り掛かったのだと考えたのです。<br /><br /><br />しかし同時に、彼らは自分たちの背きにもかかわらず、神様はあくまでも忠実で、ずっと守っていてくださって、呼びかけていてくださると信じていました。「神様はご自分に呼ばわる者を見捨てられることは無いんだ」という深い信仰に生きていたのです。<br />私たちはこの信仰の姿を忘れてはいけないと思います。<br /><br /><br />　神の裁きや怒りという言葉も、おごり高ぶる者には恐ろしいことかもしれませんが、貧しい者、傷ついた者、神の救いを待ちわびている者には、救いそのものなんですね。<br />神の怒りは、罰するためではなく、何か人を脅かしたりするためでもなく、神様から離れてしまう時に、自分の罪の結果陥ってしまう不幸のことを言うんだと思います。<br /><br /><br />吉崎　親心なんですね。<br /><br /><br />百　ええ。だから、心を病む方に伝えたいのはこういうことです。<br />　神様は一人ひとりのことを思っていてくださって、今悩んでいるあなたのことも気にかけてくださっている、何も心配しないで父の御旨に委ねなさい、そうすればきっと導いてくださるだろう。<br />今の試練は何のためか、私たちには分からないけれども、思い悩むよりも、その思いや自分の弱さや苦しみを全て神様に捧げて、そして神様が、いつかもっと大きな喜びをもって賛美することが出来るようにしてくださることを待ち望みましょう、と。<br /><br /><br />吉　「もう祈らなくっていい」ということを聞いたことがあったのですが、そういう強迫的な祈りだったら止めちゃっていいっていうことなんでしょうね。<br />聖霊が呻くように祈っていてくださるし、自分の熱心な祈りによって困難から抜け出そうとしないでいいから、委ねなさいという意味なんですね。<br /><br /><br />『<a href="http://www.febcjp.com/catho/index.html" target="_blank">神父さま、こんなこと聞いてもいいですか？</a>』（08年5月5日放送）
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<title>コーヒーブレイク・インタビュー（2008年5月10日放送）</title>
<description>西尾照夫様二人の子どもを授かったんですが、共に６歳で亡くしまして。医療過誤の裁判を起こしまして、６年程かかりまして、最終的には敗訴だったんです。二審をやるように進言されたんですけど、妻が疲労困憊で、これ以上は無理だなと断念したんです。 </description>
<dc:subject>コーヒーブレイク・インタビュー</dc:subject>
<dc:creator>FEBC Staff</dc:creator>
<dc:date>2008-05-07T16:39:40+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<strong><span style="font-size:large;">西尾照夫様</span></strong><br /><br />二人の子どもを授かったんですが、共に６歳で亡くしまして。<br /><br />医療過誤の裁判を起こしまして、６年程かかりまして、最終的には敗訴だったんです。二審をやるように進言されたんですけど、妻が疲労困憊で、これ以上は無理だなと断念したんです。<br />　<a name="more"></a>でも、妻は教会に行きだしてから、心が平安になっていく様子がよくわかったんです。柔和になっていくっていうか。神様の愛に包まれて。そういうことがよくわかったんです。それで私も教会に関心を持つようになりまして。<br /><br />自分自身も悲しみの中にいましたもんですから。日にちは経っても忘れられないんですよね。心の闇っていいますか、奥底にしまっている悲しみっていいますか…。それを救って欲しいっていう気持ちが自分にもありましたんでね。自分自身を救ってもらいたい。そういうことから礼拝に出るようになって。<br /><br />ところが、よくわからないんですよね。よく居眠りをしてました（笑）。信じられなかったいうか…。<br /><br />そういう状態が続いとったんですが、ある時にね、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」（一コリント10章13節）<br /><br />この御言葉から、まさにイエス様に出会ったことが試練からの脱出の道やったなと。その逃げる道自身が、イエス様を知ることであって、救っていただくことであったと。そういう思いになったんです。それで非常にイエス様の出会いに感謝することができました。<br /><br 